小学校に入る前の幼い子どもは、大人たちが話していることばに、じっと、耳を澄ませています。全身を耳にしていると言ってもいいでしょう。からだまるごとが耳なのです。
昔、幼い子どもたちは、群れて集団で遊ぶ中で、たくさんの遊びを通して、わらべ歌や数え歌、その他様々な聴いてすぐ憶えることのできるリズミカルでメロディックなことばの芸術を楽しみながら、ことばを聴く力を養っていました。
また、注意力を最大限に働かせながら、年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんのことばに耳を澄ませていました。
なぜって、見当はずれな下手なものの言い方をして、お兄ちゃんやお姉ちゃん、そして同朋の仲間に、残酷に笑われたくないですから。
そう、ことばを共有できることが、子どもの世界においても、ひとつの通過儀礼のようなものでした。
他者のことばを細やかに注意深く聴く力。
その力を豊かに養う機会が学校や幼稚園と言った特別な施設の外にあった、ということ。
いま、わたしたちは、そういう施設について、教育という精神の活動について、たくさんの問いを持たざるを得ない時代に生きているように感じています。
「ことばを聴く」というのは、難しい言い方をしますと、精神が精神を捉えるということでもあるのですね。
幼い子どもの無自覚な精神が、ことばの精神を本当に賢く捉えます。
それは、国語力の裏の側面であり、それが、「ことばを聴く」ということなのです。
現代において、ことばのその裏の力をいかにたわわに育んでゆくか。
幼い子どもを育てるうえで、昔も今も、特に幼児期においては、厳しい躾は、逆効果です。
むしろ、ファンタジーにあふれた夢のようなお話をたっぷりと聴かせてもらった子が、その聴く力、ふさわしい聴き分けのある性質を携えて成長して行きます。
いま、わたしたち、子どものそばにいる大人自身が、もう一度、身をもってことばの芸術を味わい、自分自身がことばの芸術を生きることが、子どもたちの国語力の育み、聴く力の育みにとって、まずは必要なことです。
大人自身が、ことばを楽しむこと。
ことばとは、情報ではなく、そもそも、神が与え給うた芸術です。
国語力を支え、それゆえ、人生を生きてゆく力を根底で支える「ことばを聴く力」。
その養いから始めて行く仕事をしようと、準備を重ねています。
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