2023年04月22日

ある授業参観から考えさせられたこと シュタイナー教育



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ある小学校での六年生の授業参観、テーマは「日本の古典(俳句・短歌)を味わおう」です。


先生は、教科書に載っている詩歌の何人かの作者の顔写真を黒板に貼り出します。


なんと、歌の作者は誰かを子どもたちに当てさせる授業でした。


そこで声に出して唱えられる詩歌も、一回だけ、ぼそぼそと発声されるだけで、その詩歌やことばの味わいを残念ながら感じることはできません。


つまり、詩歌ということばの芸術作品を先生はどう扱っていいのか分からないのだろうと思われるのです。


作者の顔を当てさせたり、その詩歌の中にどんな言葉遊びが潜まされているかを子どもに当てさせるのが、子どもたちの気を引く、その時の最上の手段だと思われたのでしょう。


我が国の文化を支える、最も大切なものである国語教育が、小学六年生の時点でこういうものであること。


本当に、様々なことを考えさせられました。


随分と前になりますが、水村美苗氏によって書かれた『日本語が亡びるとき』という本が随分話題になりました。


わたしもその本を幾度も読み返しました。


子どもたちへの国語教育の質いかんによって、わたしたちが営むこの社会を活かしもすれば殺しもすることを多くの人が認識していないこと。


国語教育の腐敗によって、必ず一国の文明は亡びゆくこと。


そのことは、多くの他国の歴史が証明してくれていること。


その時代の典型的な精神は必ずその時代に書かれた文学作品に現れるが、現代文学の実情を「『荒れ果てた』などという詩的な形容はまったくふさわしくない、遊園地のようにすべてが小さくて騒々しい、ひたすら幼稚な光景であった」と帰国子女である彼女は痛覚します。


そんな「ひたすら幼稚」である、現代のわたしたちのことばの運用のあり方から、どのようにすれば抜け出すことができるのか。


未来にとって最も具体的な、ひとつの処方箋を彼女は挙げています。


「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」


なぜ、そうなのか、この本はとても説得的な論を展開しているのです。


また、水村氏のこの論を、より明確に、より奥深く、批評している小川栄太郎氏の『小林秀雄の後の二十一章』の中の「日本語という鬼と偉そうな男たち」も読み、我が意を強くしました。


国語教育の理想とは、〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てることである。


どの時代にも、引きつがれて〈読まれるべき言葉〉があり、それを読みつぐのがその国ならではの文化であり、その国のいのちなのです。


子どもたちへの国語教育。わたしたち自身の国語教育。


それは、30年後、50年後、100年後を視野に入れた、人の根もとへと働きかける教育なのです。


わたし自身、その仕事を始めて行こうと思っています。






posted by koji at 16:17 | 大阪 | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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