2023年03月25日

こころのこよみ(第51週) 〜花が待つてゐる〜



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金沢の武家屋敷庭にて



春を待つ


人といふものの内へと
 
感官を通して豐かさが流れ込む。
 
世の精神は己れを見いだす、
 
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
 
その世の精神から力が、
 
きつと新たに汲み上げられる。
 
 

Frühling-Erwartung

Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
 
 
 
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
 
 
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
 
 
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
 
 
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
 
 
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
 
 
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
 
 
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
 
 
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
 
 
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
 
 
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
 
 
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
 
 
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
 
 
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
 
 
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
 
 
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
 
 
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
 
 
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
 
 
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
 

 
 
春を待つ

人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
その世の精神から力が、
きつと新たに汲み上げられる。






posted by koji at 12:53 | 大阪 ☔ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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