
昨日、我が家の窓から空を見上げた時の写真です。
近現代史を色々な面から学びたい、さう思ひ、色々な所へ足を運び、また本を読んでゐます。
まづは、自分たちの国の歴史に対して、とりわけ、先の大戦に対して、多角的に、かつ、しつかりと自分の中の認識を深めたいと思つてゐます。
大きなものごとを動かすとき、文書といふものがたいてい残されます。
わたしたちは、その残されてゐる文書を丁寧に見て取つていくことによつて、時の政局の中で、人がどう考へ、どう動いたかが、客観的に見えて来る。
さうして得られていく認識を積み重ね、自分自身で考へ、判断していくならば、だんだんと、ことの真相が啓けてくる。
1995年にアメリカ政府によつて公開されたヴェノナ文書によつて、日米関係においてそれまで秘されてゐた事実が公になつたことや、近年、一次資料への研究を重ねて来られてゐる林千勝氏などの報告を読んだり、you tubeで観たりしますと、驚愕の念ひに襲はれるほどです。
アメリカでも、ヨーロッパでも、ここ日本でも、むしろ、いはゆる高学歴といふものもなく、ただひたすらに働き続けてゐる人が、自分自身の頭で考へ、こころで感じる経験を積み重ねることで、ことの真実がどこにあるかを摑むことができる。
しかし、それらの多くの人々は、それをことばに表す術を知らず、利口な人たちの雄弁の前に沈黙を強いられてゐる。
自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へる。そして、自分自身のことばで語る。
この当たり前のことが如何に難しいか。
歴史観を自分自身の中で育てていくことは、大変なことです。
また、だからこそ、真実を我がことばに鋳直して行く技量を育てて行くこと、国語力を育んで行くことは、本当に、人としての一大事なのです。
その営みが、きつと未来を闇から光へと導く。
わたしたち大人は、テレビや新聞、もしくはインターネットの表層的な情報やなんとなくのイメージに踊らされたり、凝り固まるのではなく、本当に学んでいきたいものです。
世界の歴史を、とりわけ自国の歴史を、色眼鏡をかけずに学んでいくこと、本質的にはそれはとても密やかな学びですが、それはきつと、子どもたちと、さらには自分自身に希望を与へます。
失望や落胆、自虐ではありません。
希望と自尊と、そこから必然的に生まれて来る、愛です。
すべての学びは、愛に繋がつてゆきます。
【断想の最新記事】