そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
胸に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
Und bin ich in den Geistestiefen,
Erfüllt in meinen Seelengründen
Aus Herzens Liebewelten
Der Eigenheiten leerer Wahn
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
「わたしは、いる」「わたしは、いま、ここに、いる」といふ響きから生まれてくる情よりも、「わたしは、ある」といふ響きから生まれてくる、「いま」「ここ」さへも越えた、「わたし」といふものそのもの、「ある」といふことそのことの、限りのない広やかさと深さと豊かさの情。
何度も声に出してゐる内に、その情を感じる。
「わたしは、ある」。「我あり」。
それは、その人が、どんな能力があるとか、どんな地位に就いてゐるとか、からだの状態が、健やかであらうが、さうでなからうが、そのやうな外側のありやうからのことばではなく、ただ、ただ、その人が、その人として、ある、といふこと。そのことだけをその人自身が見つめて、出てきたことば。
そのときの「わたし」は、目には見えない<わたし>だ。
そして、シュタイナーの『精神の世の境』といふ本から要約したかたちだが、「愛」についてのことばを引いてみる。
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精神科学の学び手は、考へる力を通して、「わたしがあることの情」を育んでいくことに重きを置いてゐる。
その情が、こころに強さと確かさと安らかさを与へてくれるからだ。
そして、学び手は、この感官(物質)の世を生きるにおいては、その強められた「わたしがあることの情」を抑へることを通して、愛を生きる。
愛とは、みづからのこころにおいて、他者の喜びと苦しみを生きることである。
感官を凌ぐ意識によつて人は精神の世に目覚めるが、感官の世においては、精神は愛の中で目覚め、愛として甦る。
ルドルフ・シュタイナー
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「世のことばの火の力」1月6日、ヨルダン川におけるヨハネの洗礼によつて、30歳のイエスは、「世のことば」キリストを受け入れた。その「世のことば」は火の力にまでなつてゐる。
その火の力は、わたしたちひとりひとりのこころの基において「己れであることの虚しい思ひ込み」を焼き尽くす。
そして、胸に、他者への愛が息づき始める。
わたしによつて強められた「わたしがあることの情」が、わたしによつて抑へられることによつて、「己れであることの虚しい想ひ込み」が焼き尽くされる。胸に愛(インスピレーション)が満ちる。
そして、わたしはある、精神の深みに。
そして、わたしはある、精神の深みに。
わたしのこころの基において、
胸に満ちる愛の世から、
己れであることの虚しい想ひ込みが、
世のことばの火の力によつて、焼き尽くされる。
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