精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
An Geistesoffenbarung hingegeben
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
Gedankenkraft, sie wächst
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
Und weckend löst sich mir
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
「精神(靈・ひ)の啓け」。
それは、「わたしがある」といふことを実感すること。
それこそが、すべての現代人における、もつとも深い願ひなのではないだらうか。
どんなときでも、どんな場所でも、誰と会つてゐても、誰に会つてゐなくても、「わたしがある」といふことへの情、信頼、確かさが己れに根付いてゐるほどに、人は健やかさに恵まれはしないだらうか。
その「わたしがある」といふ情が、この時期に、イエスの誕生によつて、人にもたらされた。
それを「精神(靈・ひ)の啓け」と、ここでは言つてゐる。
では、「わたしのわたしたるところ」「わたしがある」といふ情はどのやうに稼がれるだらうか。
それは、「考へる力が長ける」ことによつて稼がれる。
普段、わたしたちの考へる力は、目に見えるもの、手に触れるものなど、物質的なものについて考へることに、尽きてしまつてゐる。
「いま、何時だらう」「今日は何を食べようか」「あそこに行くまでには、どの電車に乗り継いでいつたらいいだらうか」「ローンの返済を今月ちやんと済ませることができるだらうか」などなど・・・。
わたしたちのふだんの考へる力は、そのやうに特に意志の力を要せず、やつてきたものを受けとり、適度に消化し、あとはすぐに流していくことに仕へてゐる。
しかし、たとへば、葉がすべて落ちてしまつた木の枝や、目に美しい花や紅葉などが消え去つた冬の裸の枝。
それらをぢつと見つめながら、こころの内で、次のやうなことをみづからの意欲・意志を注ぎ込みながら、考へてみる。
その寒々しい冬の裸の枝に、やがて来たる春や夏には鮮やかな花が咲き、緑滴る葉が生い茂る。
そのいまは目には見えない花や葉を想ひ描きつつ、その木に脈々と通ふ生命について、熱く考へてみる。
さうすると、その寒々しかつた冬の裸の枝の先に、何か活き活きとした光のやうなものが感じられてくる。
それぐらゐ、考へる力を、見えるものにではなく、見えないものに、活き活きと意欲を働かせつつ向けてみる。
すると、その考へられた考へが、それまでの外のものごとを単になぞるだけ、コピーするだけの死んだものから、ものやことがらの内に通つてゐるかのやうな、活き活きと命を漲らせたものになる。
考へる力を、そのやうに、感官を超えたものに、意志をもつて向けていくことによつて、死んでゐた考へを命ある考へに転換できる。
死を生に転換できる。
そして、その考へる力によつて、わたしたちみづからも活き活きとしてくる。
その考へる力によつて、わたしにわたしみづからが明かされる。
わたしに、「わたしがあること」の情を、呼び覚ます。
それは、おのづから生まれるのではなく、ひとりひとりの人がみづから勤しんでこそ稼ぐことのできる高くて尊い情だ。
「わたしがあること」の情とは、みづからに由るといふ情、「自由」の情でもある。
その内なる自由からこそ、「わたしを捧げる」意欲、つまり、愛する道を歩いていくことができる。
そして、「わたしがある」といふことをもつて「身を捧げる」。
ならば、「わたしは世といふものの光を得る」。
それは、どこまでも、この「わたしのわたしたるところ」、「わたしがある」への信頼から、人との対話へと、仕事へと、一歩踏み出していくこと。
それは、きつと、見返りを求めない、その人のその人たるところからの自由な愛からのふるまいだ。
その勇気をもつて踏み出した一歩の先には、きつと、「世といふものの光」が見いだされる。
たとへ闇に覆はれてゐるやうに見える中にも、輝いてゐるもの、輝いてゐる人、そして輝いてゐる「わたし」を見いだすことができる。
「わたしがある」といふ情を育みつづけるならば。
精神(靈・ひ)の啓けに身を捧げ、
わたしは世といふものの光を得る。
考へる力、それは長ける、
わたしにわたしみづからを明かしながら。
そしてわたしに呼び覚ます、
考へる力を通して、わたしがあることの情を。
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