<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
己れみづからが手足となり、
世を慎ましく生き抜いてゆく。
Kann ich das Sein erkennen,
Daß es sich wiederfindet
Im Seelenschaffensdrange ?
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
Als Glied bescheiden einzuleben.
この『こよみ』の<ある>といふことばから、言語造形家の鈴木一博さんが以前、シュタイナーの『礎のことば』について書かれてゐた文章を想ひ起こした。
そもそも、<わたし>は、気づいたときには、もう既に、ここに<あつた>。
ものごころがついたときから、<わたし>が既に<あらしめられてある>ことに、気づきだした。
この<わたし>は、わたしが気づく前から<ある>。
そして、いま、<わたしはある>といふ事態をありありと感じることができる時といふのは、わたしのこころが活き活きと生きて働いた後、そのことをその活き活きとした感覚を失はずに想ひ起こす時ではないか。
だから、そのやうに、こころにおいて活き活きと何かを想ひ起こすことで、<わたしがある>といふことを、より深く、より親しく感じ、より明らかに知つていくことができる。
何を想ひ起こすのか。
内に蘇つてくる、ものごころがついてからの想ひ出。
また、ふだんは想ひ起こされないものの、故郷の道などを歩くときに、その場その場で想ひ出される実に多くのこと。
当時あつたことが、ありありと想ひ出されるとき、そのときのものごとだけでなく、そのときの<わたし>といふ人もが、みづみづしく深みを湛えて甦つてくる。
それらを頭で想ひ描くのでなく、胸でメロディアスに波立つかのやうに想ひ描くならば、その想ひ出の繰りなしは、みづみづしい深みを湛えて波立ついのちの織りなしと言つてもいいし、「精神の海」と呼ぶこともできる。
その「精神の海」に行きつくことによつて、人は「みづからがある」ことに対する親しさを得ることができはしないだらうか。
そして、その「精神の海」には、わたしが憶えてゐるこころの憶ひだけではなく、からだが憶えてゐるものも波打つてゐる。
たとへば、この足で立つこと、歩くこと。ことばを話すこと。子どもの頃に憶えたたくさんの歌。自転車に乗ること。字を書くこと。筆遣ひ。包丁遣ひ。などなど。
身についたこと、技量、それはどのやうに身につけたかを頭で想ひ出すことはできなくても、手足が憶えてゐる。
手足といふもの、からだといふものは、賢いものだ。
それらの手足が憶えてゐることごとへの信頼、からだの賢さへの信頼があるほどに、人は、<わたしがある>といふことに対する確かな支へを持てるのではないだらうか。
また、パーソナルな次元を超えて、人といふ人が持つてゐる、からだといふなりたち、こころといふなりたち、果ては、世といふもの、神といふもの、それらも人によつて想ひ起こされてこそ、初めて、ありありと、みづみづしく、その人の内に生き始める。
だからこそ、<わたしはある>といふ想ひを人は深めることができる。
<神の内に、わたしはある><わたしの内に、神はある>といふ想ひにまで深まることができる。
想ひ出をみづみづしく蘇らせること。
手足の闊達な動きに秘められてゐる技量といふ技量を発揮すること。
それらすべてを司つてゐる世の生みなし手にまで遡る想ひを稼いで得ること。
それらが、<わたしがある>といふことの意味の解き明かし、<わたしがある>といふことへの信頼を生みはしないか。
それらが、人のこころを活き活きと生かしはしないか。
わたしのこころが活き活きと生きたことを想ひ起こすことと、<わたしはある>とが響きあふ。
<ある>といふことを知つていくことは、<ある>といふことを想ひ起こしていくことだ。
世の中において、こころが<生きた>こと、手足が<生きた>こと、わたしまるごとが<生きた>ことを、活き活きとわたしが想ひ起こす時、<わたし>も、世も、ありありと共にあつたのであり、いまも共にあるのであり、これからも共にありつづける。
わたしと世は、きつと、ひとつだ。
そして、いまも、これからも、精神からの想ひ起こしをすることで、こころを活き活きと働かせつつ、力が与へられてゐるのを感じつつ、手足を使つて、地道に、慎ましく、世を生きてゆくほどに、<ある>といふことを、つまりは、<わたしがある>といふことを、わたしは知りゆき、何度でも見いだしていくだらう。
ここで、クリスマス会議でシュタイナーにより発せられた『礎のことば』のはじめの一部を載せておきます。
人のこころ!
あなたは手足に生き
手足に支へられつつ、場を経て
精神の海へと行きつく。
行はれたし、精神の想ひ起こしを
こころの深みにて。
そこにては
世の生みなし手が司り
あなたの<わたし>が
神の<わたし>のうちに
ありありとある。
もつて、あなたは真に生きるやうになる
まこと人として、世のうちに。
(鈴木一博氏訳)
<ある>とは何かを、わたしは知りえるのか、
それを再び見いだしえるのか、
こころが活き活きと働くならば。
わたしは感じる、わたしに力が与へられてゐるのを。
己れみづからが手足となり、
世を慎ましく生き抜いてゆく。
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