Marina Fernandes Calache「詩」
みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
Sich selbst des Denkens Leuchten
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
Erlebtes sinnvoll deutend
Aus Weltengeistes Kräftequell,
Ist mir nun Sommererbe,
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
改めてこの夏を振り返つて、夏といふ季節からの贈り物は、何だらう、さう問ふてみる。
それは、「ことば」であつた。
「わたしはひとりである」といふ「ことば」だつた。
いま、秋になり、外なる静けさの中で、その「ことば」を活発に消化する時であることをわたしは感じてゐる。
そして、来たる冬において、その「ことば」は、血となり、肉となつて、生まれ出る。
夏に受けとられ、秋に消化された「ことば」が、冬には、「己れのことば」、「わたしの内なるひとり生みの子」、「わたしの仕事(ことに仕へる)」として、世へと発信される。
そんなクリスマスへの希みがある。
夏に贈られた「ことば」があるからこそ、この秋、その「ことば」を基点にして、自分の情を鎮めることができる。自分の考へを導いていくことができる。自分の意欲を強めていくことができる。そして、冬へと、クリスマスへと、備へるのだ。
メディテーションをする上にも、余計なことを考へないやうにするために、飛び回る鬼火のやうな考へや情を鎮めようとする。
しかし、いくら頑張つてみたところで、どうにも鎮まらない時がよくある。
そんな時、メディテーションのために与へられてゐる「ことば」に沿ひ、その「ことば」に考へを集中させていくと、だんだん、おのづと、静かで安らかなこころもちに至ることができる。
「ことば」を先にこころに据ゑるのだ。
その「ことば」に沿ふことによつて得られる感覚。
日本人においては、特に、万葉の歌を歌ふ頃から時代を経て、「古今和歌集」の頃もさらに経て、「新古今和歌集」が編まれた頃、その「ことば」の感覚が、意識的に、尖鋭的に、磨かれてゐたやうだ。
歌を詠むこと、詠歌において、「題」を先に出して、その「題」を基にして、まづ、こころを鎮め、こころを整へて、その後、歌を詠んだのである。
こころの想ふままに歌を歌へた時代は、だんだんと、過ぎ去つていつたのだ。
こころには、あまりにも、複雑なものが行き来してゐて、それが、必ずしも、歌を詠むに適した状態であるとは限らない。
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詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ
トカク歌ハ、心サハガシクテハ、ヨマレヌモノナリ
コトバ第一ナリ
(本居宣長『あしわけ小舟』より)
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「ことば」が、こころの内に据ゑられてあるからこそ、「ことば」といふ手がかりがあるからこそ、わたしたちはみづからのこころのありやうを、手の内に置くことができるやうになる。
わたしたち日本人は、長い時を経て、歌を詠むことを通して、「ことば」の世界に直接入り、「ことば」の力に預かりながら、己れのこころを整へ、情を晴らし、問ひを立て、明日を迎へるべく意欲をたぎらしてゐた。
秋になり、わたしたちは夏に贈られた「ことば」を通して、妄念を鎮め、こころを明らかにしていくことができる。さうして初めて、「みづから考へることの光を、内において力強く灯す」。
歌を何度も何度も口ずさむやうに、メディテーションを深めていくことが、来たる冬への備へになるだらう。
みづから考へることの光を、
内において力強く灯す。
世の精神の力の源から、
意味深く示される数々の験し。
それらはいま、わたしへの夏の贈りもの、
秋の静けさ、そしてまた、冬の希み。
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