どんなに不精な人でも、実は、日がな一日、ずつと、手足をぶらぶらさせて生きてゐます。つまり、常に、動いてゐます。からだは、ずつと、動いてゐるのです。
そして、こころも、常に動いてゐます。それは、気持ちの揺れ動き、浮き沈み、こころ変はり、といふやうに言ひ表されますが、現代人であるわたしたちに最も特徴的なのは、常に、考へてゐるといふことです。
しかも、その考へられてゐる考へが、次から次へと、とめどもなく、移り変はつてゆくこと。さらには、その考へが、その人みづからが考へたいことではなく、何か外からの働きかけを受けて、考へさせられてゐることによるものだといふことです。
考へたいことを考へてゐるのではなく、考へさせられてゐるのです。
その考への生には、自由といふものがありません。
その考への生には、精神といふものがありません。
わたしたちは、立ち止まる必要があります。
さう、からだは、常に動きの中にあります。
しかし、こころこそ、自由になるために、立ち止まる必要があります。
こころが立ち止まればこそ、そこに精神・靈(ひ)が現れます。宿ります。留まります。
精神・靈(ひ)は、外からの影響がすべて鎮まつたこころのしづかさの中に現れます。
精神・靈(ひ)は、時間の外に現れます。
こころが、時間の流れから出ることができた時に現れるもの、それが、精神・靈(ひ)です。
こころを止むことのない動きから解放し、しづかさの中へといざなふためには、意識的に、からだの動きをも、ゆつくりとさせる、もしくは、止める、といふことが有効だと感じてゐます。
さらには、こころのしづかさへと至るために、からだの中の骨を意識するといふことがとても有効です。
からだの内なる骨の存在を意識するのです。
からだを動かす時にも、筋肉で動かず、骨を動かす、骨が体の動きを導く、そんな感覚です。
骨は、からだの内で、死んでゐます。
生きてゐるこのからだの内側にあるのにもかかはらず、死が司つてゐる場所なのです。
死んでゐるからこそ、そこに、精神・靈(ひ)が通ひます。
そのやうな骨を意識し始めると、こころに、しづかさが、しづしづと、流れ始め、拡がり始めます。
そのとき、こころはしづまり、安らかさ、穏やかさに立ち戻り、外からの桎梏から解き放たれる自由を生き始めることができます。
しづかさの中で、本当に、わたしが考へたいことを考へる。
その時、人は、自由です。
ミカエルの秋(とき)に向けて、そんなことを念ひます。
【アントロポゾフィーの最新記事】
- 我がこころのこよみ
- 「分かる」の深まり
- ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ば..
- 夏至考
- 幼な子の夢見る意識を守ること
- メディテーションのことばと言語造形
- 音楽家ツェルターに宛てた手紙から ゲーテ..
- 『神秘劇』(シュタイナー作)より
- 日本における聖き靈(ひ)の降り給ふ祭り(..
- 教員養成講座 受講生のことば
- アントロポゾフィーを分かち合う場
- アントロポゾフィーという練習の道
- ことばが甦るとき
- 破壊のかまど
- 冬、それは見えないものを考える季節
- 本を通して自由になるといふこと
- クリスマス・新嘗祭への備え 〜いのちの営..
- むすんでひらいて
- ヨハネの祭り 夏、地を踏みつつ天へと羽ば..
- 促成栽培的でない自己教育の道