
わたしのこころの内には、何人かの精神の巨人が、ありありと生きてゐるがごとく、ずつと存在してゐます。
それは、20世紀初頭に中部ヨーロッパで生き、働いたルードルフ・シュタイナーであり、また、この日本の昭和時代を生き抜いた小林秀雄、保田與重郎、三島由紀夫といふ方々です。そして、現存されてゐる方で、執行草舟氏が古典的な精神の人としてわたしの内に存在してゐます。
ルードルフ・シュタイナーは、ひたすらに、ヨーロッパの精神をふさはしい方向へと導くべく黙々と仕事を積み重ねた人であり、人々がまことのキリストのこころざし(Christ Impuls)に目覚めるためのことばを倦まず弛まず語り続けて死んで行つた人だとわたしには思へます。
小林、保田、三島、それらの方々は皆、日本の精神を日本の精神として打ち樹てるべく黙々と仕事をし、人々がまさに日本古来の神ながらの精神にふたたび目覚めるべくことばを倦まず弛まず語り続けた方々であり、そして今も、執行氏はひとりその仕事に邁進してをられます。
西と東において、文化に大きな違ひがありますが、わたしの内においては同じ響きを強く確かに奏でる方々なのです。
それは、人が、精神といふもの、神々しいものを意識に目覚めさせ、その上で、みづからの足で立つこと、自立すること、自主独立すること、人として自由になりゆくこととはどういふことかを、真摯に考へ続け、それを己が身において実行し続けた人である、そんな歌を生涯を賭けて、片やドイツ語で、片や日本語で歌ひ上げた(歌ひ上げてゐる)方々なのです。
キリストのこころざし(Christ Impuls)。
神(かむ)ながらの道。
それらは思念で重ね合はせるものではなく、我が人生においてこそ、その重なりを自得してゆくものである。
それらが重ね合はされるのを待ちつつ稼ぐことが、我が生涯の仕事であります。
だから、毎日、その方々の全集を読み続けることが、我が日々の仕事です。
それは、わたしにとつては、そこに山があるから登る、といふ、登山家にとつての当然の行為の対象であり、また、垂涎の的でもある山に向かふがごとき行為なのです。
敬ふ人(敬ふ精神)がこころにある、といふことは、まこと、幸せなことだと思ひます。