
東山魁夷「白い馬の見える風景」
言語造形の舞台をしてゐる時や、講義や講演をしてゐる時、どうあがいてみても、美しく歌ふことができない時があります。
どうしてだらう。準備も重ねたし、気持ちの面でも意識の上では前向きになつてゐるのに。
しかし、本当は分かってゐるのです。
生活。
生活に原因がある。
毎日の生活のなかで重ねられていく意識はやがて無意識の底に沈められていくのだけれども、その沈められてゐるものの質に原因がある。
生活がまつすぐになつてゐないのである。
生活の中で余計なことをしすぎ、余計なものを喰らいこみすぎている。
そして、作品に対するまごころ、ことばに対する敬意への意識がどこか不鮮明になつてゐるのです。
そのことを念ふとともに、保田與重郎のことばにすぐに帰りました。
心持が如何にことばの風雅(みやび)の上に現れてゐるかは、
心持の深さや美しさのものさしとなるし、
作者が神の創造の思想に達している度合のめもりである。
かくして言葉に神のものが現れるといふ言霊の風雅(みやび)の説は、
人各々の精神の努力と誠心とから遊離せぬものである。
人各々の心にある神が、ことばにも現れたときに、
その歌は真の美しい歌となるといふ意味だからである。
我が内に鎮(しづ)まる神が現れることは、
かりそめの誠意ではあり得ないことであった。
(『古典論』より)
與重郎のことばは、わたしにとつて清潔で志の通った山であり、谷であり、川であり、海であります。
そこに帰つていくことで、わたしは漸くそのことばの内に宿つてゐるいのちの泉から清冽な水を汲み、喉を潤します。
美(まこと)は、いかにして、我が身を通して生きうるものなのか。
醜(うそ)は、なにゆえ、我が身に忍び寄り、寄生しようとするのか。
「かりそめの誠意」ではなく、精神からの本当のこころの糧を求め、まごころを尽くす生活を。
だから、どんな険しい経験も、新しい認識となつてくれます。
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