2022年08月01日
屈託のない時間と考へを深める時間
昨日は、わたしたちアントロポゾフィーハウスによる「ヨハネ福音書講義」の後、「イエス・キリスト生誕劇」クラスを汗だくでやり終へ、暑い夏の夕方になつて十代の若い人たちが8人ほどやってきて、バーベキュー😀 大いに食べて、大いにおしゃべりして、こころを寛がせてゐる彼らの様子を観てゐると、彼らはかういふ「大人に管理されない時間」が要るのだなあと思はずにはゐられませんでした。自由といふものに何とかして向かつて歩いて行きたい、その秘められた念ひが、表情や言葉遣ひの端々に見え隠れします。そして、同時に、「大人から何らかのきつかけが与へられること」によつて、自分自身の頭と心でしつかりと考へて行きたいといふ切なる求めがあることも垣間見ることができたのでした。バーベキューのあと、輪になつて座り、学校といふところに通ひつづけることへの意味をそれとなく問ひかけるやうなことばをわたしの方から出させてもらつた時、彼らはそれまでのはしゃぐやうな振る舞ひを一変させて、口々に想ひのこもつたことばを静かな趣きで話し始めたのでした。もちろん、そこでは、何らかの決まつた答へや大人からの誘導めいたことばなどなく、ただただ、若い人たちのこころの内で、ひとり考へつづけてゆくきつかけが生まれたかのやうでした。そのとき、ひとりひとりの若者の頭の周りにそれまでとは全く違ふ、光のやうな「考へるオーラ」が放たれてゐるかのやうな様子なのでした。若い人たちには両方が必要です。ひとつは「大人に管理されない時間」。まうひとつは「大人によつて促がされつつ考へる働きを用ゐる時間」。その両輪によつて、彼らは「自由への道」を歩き始めることができる。仲間と和しながら、たつたひとりつきりの道を歩いて行くのです。そんな若い人の輝きが、いえ、人といふもののとこしへの輝きが見えた昨日なのでした。
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