このふたつは、わたしには裏表の関はりにあると見えます。
たとへば、政治において、国民に約束したことを実現しない政治家を国民は弾劾することができていいはずです。
なんらかのしからしめで約束を実行しないのでせうが、約束を履行しなかつたり、国民の総意を確かめもせず勝手に政策を実行していく政治家や政党は、責められていいはずです。
悪いところをいいとすることはできませんし、間違ひをまことと見ることもできません。
これは、政治における人のあるべきあり方であり、人の意識の向け方、意識の育み方と言つてもいいやうに思ひます。
しかし、精神においては、まるで正反対の意識の育み方を要しはしないでせうか。
つまり、どれほど間違つたことをしてしまつても、過ちを犯したとしても、それらのことを悪しきこととしつかり認識しつつも、それをしてしまつてゐる人のよきところに目を注ぐ意識を怠つては、精神の育ちに支障をきたすといふことなのです。
また、さらには、悪の中に、高い役割を見いだすといふことなのです。
間違つてゐるもの、悪しきものへの批判・批評は、政治的に必要なものですが、同時に、人には、その間違つてゐるもの、悪しきものへの理解が精神において必要でもある。
この精神からの作業は、難航を極めます。
しかし、だからこそ、この作業をすることによつて、人は、この、精神と政治の間で、こころのバランスを取る技量を得ていくことができます。
そして、精神と政治の境における、各々のことばの使ひ方をも意識的に分ける必要があります。
具体的に言ふと、繰り返しになりますが、政治においては、いいものはいい、駄目なものは駄目とはつきりと表明する必要があります。
しかし、さう表明する政治的なわたしに重ねて、精神的なわたしが、密(ひめ)やかに、それら善きものに対する熱狂を統御する必要があるのではないか。また、それら悪しきものがこの世にあらざるをえないことへの理解と悲しみの意識を稼ぐことが大切なことになるのではないか。
だからこそ、政治のことばは、時に大きな声で叫ばれる必要があり、精神のことばは常に密(ひめ)やかに語られる必要がある。
しかし、どちらのことばも、ひとりの人が併せ持つものです。
さういふ精神と政治といふ、二重の意識の重なりを育む必要が、すべての現代人にあるやうに感じてゐます。
人の教育とは、そのやうな精神と政治の間の外なる区別と内なる重層を育むものであり、子どもたちへもそのやうな意識をもつて伝へるべきことは伝へていく必要があるとわたしは考へてゐます。
国際的な生き方におけるそんな密(ひめ)やかな意識をここ日本でも培ふ必要がこれからはあると、わたしは考へてゐます。