
深沢清「松坂の一夜」
小林秀雄の『考へるヒント』や『本居宣長』を読んでゐて、とりわけ魅力的なのは、江戸時代の学者たちについて縷々述べてゐるところです。
ものを学ぶには、本ばかり読んで、机上の知識を弄ぶのではなく、外に出て、人と世に交はれ、人と世に働きかけよ。さう言ふ人は幾らでもゐます。
しかし、江戸時代中後期に現れた学者たちは、市井で生きていくことの中に真実を見いだすこと、俗中に真を見いだすことの価値の深さを知つてゐました。
だから、さういふ当たり前のことはわざわざ口に出して言ひませんでした。
寧ろ、独りになること。
そして、その「独り」を強く確かに支へ、励ますものが、本であること。
師と古き友を、本に求める。
本といふもの、とりわけ、古典といふものほど、信を寄せるに値するものはないと迄、こころに思ひ決め、その自恃を持つて、みづからを学者として生きようとした人たち。
そして、古典といふ書の真意は、独りきりで、幾度も幾度も読み重ねることから、だんだんと読む人のこころの奥に、啓けて来る。
そのときの工夫と力量を、彼らは心法とか心術と言ひました。
一度きりの読書による知的理解と違つて、精読する人各自のこころの奥に映じて来る像は、その人の体得物として、暮らしを根柢から支へる働きを密かにする。
数多ある注釈書を捨てて、寝ころびながら、歩きながら、体で験つすがめつ、常に手許から離さず、さういふ意気に応へてくれるものが、古典といふものです。
さうしてゐるうちに、学び手のこころの奥深くで真実は熟し、やがて表の意識に浮かび上がってくる。そのとき浮かび上がつてくるものは、学説などといふものではなく、真理を追ひ求めた古人の人格であり、それは浮かび上がつた後も、依然多くの謎を湛えてゐる筈です。
今日、ルードルフ・シュタイナーの『テオゾフィー 人と世を知るということ』のオンラインクラスをしながら、学といふものに骨身を削つた日本の古い人たちを思ひ浮かべてゐました。