この、陽の時に、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる」
Es ist in dieser Sonnenstunde
An dir, die weise Kunde zu erkennen:
An Weltenschönheit hingegeben,
In dir dich fühlend zu durchleben:
Verlieren kann das Menschen-Ich
Und finden sich im Welten-Ich.
「世の美しさ」とは、決して表側だけの美しさを言つてゐるのではないだらう。
この、陽の時には、美しさも醜さも、素晴らしさも馬鹿馬鹿しさも、すべてが白日の下に晒される。
それらすべてが白日の下に晒され、光が当てられるからこそ、「世の美しさ」なのだ。
その晒されたものがなんであれ、人はそれを経験し、生きなければならない。
善と悪、美と醜、真と偽、喜びと悲しみ、それぞれがひとつのもののうらおもてだといふこと。
そのやうな、のつぴきならなさが、「世の美しさ」として感じられるだらうか。そして、それに沿ふことができるだらうか。
どんな単純なものごとであれ、複雑なものごとであれ、どんな素晴らしいことであれ、酷いことであれ、わたしたちは、そのものごと、できごとを見くびらずに、その深みを見てとることができるだらうか。
ものごとは、なんであれ、付き合ひ続けて、沿ひ続けて、初めて、密やかに、その深さを打ち明け始める。
子どもの立ててゐる寝息や家族の笑顔。草木や花々の健気ないのちの営み。日々つきあつてゐる者同士の関係、愛、いさかひ、葛藤。毎日移り変はつていく世の動向。人びとの集団的意識の移り行き。
それらひとつひとつが、その深みを顕してくれるのは、はやばやと見くびつてしまはずに、こころをこめてそれに向き合ひ続け、沿ひ続けるときだ。
そして、ものごとに沿ふといふ行為の、肝腎要(かなめ)は、
ものごとと<わたし>との関係において、何が過ぎ去らず、留まるものなのか、いつたい何が本質的なことなのか、といふ問ひをもつこと。
それが精神を通はせつつ、ものごとに沿ふことの糸口になる。からだをもつて振る舞ひ、こころから行為していくことの糸口になる。
その時、捨てようとしなくても、人は狭く小さなわたしを捨てることができるかもしれない。
そして、はるかに広やかで、はるかに深みをもつた<世のわたし>の内に、「賢き知」と、他の誰のでもない、自分自身のこころざしが、立ち上がつてきはしないか。
人の<わたし>は、みづからを失ひ、そして、世の<わたし>の内に、みづからを見いだすことができる。
この、陽の時に、
あなたは、賢き知を得る。
世の美しさに沿ひつつ、
あなたの内にいきいきとあなたを感じ切る。
「人の<わたし>は、みづからを失ひ、
そして、世の<わたし>の内に、
みづからを見いだすことができる」
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