
画家とは、何をする人なのだらう。セザンヌの絵を観て、そのことを考へさせられます。
セザンヌをはじめ、「印象派」と言はれる画家たちの実現しようとしてゐたこと、それは肉の眼に見える自然のものをなぞるやうに描くことではなかつた。
目の前にある、山であれ、湖水であれ、樹木であれ、花瓶であれ、果物であれ、人であれ、画家が強い意欲をもつて、ものを見ようとすればするほど、ものもぢつと彼を見つめる。
自然が自然そのものの内に秘めてゐる密(ひめ)やかで、持続的で、強く、時に巨大な「もの」を彼に流し込んでくる。
それは既に、感官(目や耳などの感覚器官)を超えて受信される「もの」である。
そして、そのやうな自然からの「もの」の流れに応じるかのやうに、あまりにも巨大な画家自身の「こころそのもの」が立ち上がつてくる。
その場その場の自然から流れ込んでくる「もの」。そして、立ち顕れてくる彼自身の「こころそのもの」。
そのふたつの出会ひをこそ、キャンバスの上に、色彩で顕はにしろと、自然そのものが彼に強く求める。
セザンヌのことばによると、「感覚を実現すること」、それこそが絵を描くといふことであつたやうです。
まさに「仕事」として絵を描くとは、彼にとつては、それであつた、と。
わたし自身は、画家ではありませんが、この「ものをぢつと観ること・聴くこと」といふこころの練習を習つてゐます。
それは、ルードルフ・シュタイナーが書き残してくれた幾冊かの書に沿つてです。
その練習は、ものから、ものものしい何かを受け取ることのできるこころの集中力の養ひです。
このこころの力は、本当に、何年も何十年もかけて養はれていくものだと実感します。
そして、この力は、子どもを育てることにおいてとても重きをなす力です。
子どもといふ存在から、ものものしい何かを受けとり、それをこころにリアルに感覚することができるかどうか。
ですので、シュタイナー教員養成において、この内なる習ひ・養ひは欠かせないことの一つであります。
そして、あらためて、セザンヌは、そのことを、意識的になした人であつたと感じるのです。
ですので、美術館で実物の彼の絵を観るとき、いつも、画布の前でわたしはとてもとてもアクティブなこころのありやうでゐざるをえません。


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