
ギュスターブ・ドレ「ペンテコステ」
感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
Es wächst der Sinne Macht
Im Bunde mit der Götter Schaffen,
Sie drückt des Denkens Kraft
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
Wenn göttlich Wesen
Sich meiner Seele einen will,
Muß menschlich Denken
Im Traumessein sich still bescheiden.
※ Denken といふ名詞を「思考」とは訳さずに、
「考へる」としてゐます。
denken といふ動詞(考へる)から生まれてゐるがゆゑ、
その活き活きとした働きを殺さないやう、
名詞でありながら、動詞的に訳してゐます。
感官の力(見る力や聴く力など)が、ものに吸ひ寄せられてしまふこともあるだらう。たとへば、テレビやこのコンピューターの画面などに。
しかし、ものに吸ひ寄せられたままではなく、感官の力を、もつと意識的に、意欲的に、働かせ、じつくりと腰を据ゑて、何かを見る、何かに耳を澄ませてみる、さらには、あへて、見呆けてみることで、周りといふ周りを広やかに意識を広げてみる、周りの気配まるごとを感覚してみる・・・。
考へる力が鎮められ、沈められる位、見てみる、聴いてみる。
見れど飽かぬも、まさに、見てとればいよいよ飽かぬも。
なぜ、飽かぬのだらうか。それは、見てとる、見る、見ゆ、に先立つて、愛するがあるからだ・・・。
そのとき、そのときの、「愛する」から、からだの大いさ、からだを使ふことの大事さが披かれる。
その時のこころのありやうは、むしろ、「考へるは、夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる」と表現することがぴつたりとする。
さうすると、わたしたちは、何を受け取り、どのやうに感じるだらう。
この週は、聖き霊(ひ)の降り給ふ祭の週でもある。
約二千年前、十字架刑の三日後にキリストは甦り(復活)、その後四十日間に渡つて、キリストは精神のからだをもつて現はれ、当時の弟子たちに親しく語りかけたといふ。
しかし、キリストはその後十日間、弟子たちの前からその姿を消したといふ(昇天)。
その十日の間、弟子たちは「夢のやうなありやうの中で静かに慎んで」ゐた。
ひとところに集まつて、静かに熱く、しかし夢にまどろんでゐるやうなありかたで祈つてゐた。
そして、聖き霊の降り給ふ日、それは聖き霊(聖き精神)が、ともに集つてゐる弟子たちに初めて降りてきて、弟子たちがさまざまな言語をもつて(ひとりひとりがおのおの自分のことばで)、そのキリストのことばとしての聖き精神を語り始めた日だつた。
前週において、「さあ、来たれ、わたしの予感よ、考へる力に代はつて」とみづからの精神に呼びかけた。
その「予感」への呼びかけとは、こざかしく考へることを止めて、より大いなるものからの流れ(世の考へ・キリストのことば)に耳を傾けるといふ行為だつた。
それは、「静かに慎む」「傾聴する」ありやうをもつて、みづからを浄めつつ待つといふ行為でもある。
二千年後のわたしたちは、考へる力が失はれてくるこの季節においても、そのやうな備へをしようとアクティブにみづからをもつていくならば、「神々しいものが、わたしのこころとひとつになる」聖き霊の降り給ふ祭を、自分たちのいまゐる場所で、きつと打ち樹てていくことができる。
「すべては神々の創り給ふものである」「神々しいものとこころがひとつになる」といつたことを読んだり、言つたりするにとどまらず、予感し、実感し、見て、そのことを生きていくために、からだを通して、実際の練習を意識的にしつづけていくことの大切さを感じる。
教育であれ、芸術であれ、そこにこそ、アントロポゾフィーの社会性が育つていく基盤があるのではないだらうか。
感官の力が長けゆく、
神々の創り給ふものに結びつけられて。
それは考へる力を沈める、
夢のまどろみへと。
神々しいものが、
わたしのこころとひとつにならうとする時、
きつと人の考へるは、
夢のやうなありやうの中で、静かに慎んでゐる。
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