
大阪の住吉大社の祈年祭の時
今日、4月17日が今年はキリスト教圏で言ふ「復活祭の日」ですね。
日本では、この「甦りの日」をどう祝つてゐたのでせうか。
古来、「祈年祭(としごひのまつり)」が、耕作始めにあたり、五穀豊穣を祈る祭として、旧暦の2月4日(今の暦ですと3月半ばごろでせうか)に宮中はじめ全国津々浦々の神前において執り行はれてゐました。
それは、前年における旧暦の11月23日(今の暦ではおほよそ年末のクリスマスにあたる時期です)に、その年の新しい収穫を神前に感謝を捧げつつ、神と共にそれらを食する祭、新嘗祭(にひなへのまつり)からの新しい引き継ぎでもあります。
昔は、「米」のことを「とし」と言ひ、冬至の陽の力が新しく生まれ変はる時に、新嘗祭をもつて、新しい「米」「とし」の魂をいただくことを期してゐたのです。ですので、年の初めの「お年玉」とは、神からいただいた新しい米に宿る精神を身に授かるものだつたのですね。その新嘗祭は、宮中をはじめ各地の神社においていまだに踏襲されて執り行はれてゐます。
その新しい年の精神を身に宿しつつ、お籠りの時を経て、わたしたち人は花開く春を迎へます。
それは、地の深み、身の深みに籠つてゐたわたしたちのこころが、地上に芽吹き始めるかのごとく、からだから解き放たれ始めるときでもあるのです。
日本では、いまでは不可視となつてしまつてゐる、そのこころのおのづからな営みをリアルに受け取りつつ、古来、「祈年祭(としごひのまつり)」として神々に祈りを捧げてをりました。
新しい「米・とし」の豊穣を乞ひ願ふことで、暮らしの経済を成り立たせつつ、実は、精神として新しく生まれ変はり(甦り)、成長していくことを乞ひ願ひ、実際にそれを促す、共同の精神の秘儀、それが「祈年祭」でした。
いま、こころは、からだから少しづつ解き放たれてゆき、世の高みに向かつて、世の精神(高天原)へと自由に羽ばたいて行きたがつてゐます。
そのやうな、こころの甦りを祭る日が日本にもありました。
『こころのこよみ 第一週 〜甦りの祭の調べ〜』として、ルードルフ・シュタイナーによるこよみのことばと共にわたしの拙ない訳とコメントを付したものを以下に掲載してゐます。よろしければ、ご覧いただければ、嬉しく思ひます。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/486685983.html