滋賀県大津市の建部大社の八重桜
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
Wenn aus den Weltenweiten
Die Sonne spricht zum Menschensinn
Und Freude aus den Seelentiefen
Dem Licht sich eint im Schauen,
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
Gedanken in die Raumesfernen
Und binden dumpf
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
自分自身のこころが、光とひとつになり、喜びが溢れだす。
陽の光(外なる自然)と、こころの光(内なる自然)が、ひとつになる。
春とは、そもそも、そんな己れのありやうを観ることのできるときだ。
ものをぢつと見る。ものもぢつとわたしを見てゐる。
ものをぢつと、見つめるほどに、ものもわたしに応へようとでもしてくれるかのやうに、様々な表情を見せてくれるやうになる。
そんな、わたしとものとの関係。
それは、意欲と意欲の交はりだ。
その交はりのなかに、ある集中した静けさが生まれる。
その静けさが、わたしのこころを喜びと共に空間の彼方へと拡げてくれる。
とかく、狭いところで右往左往しがちな、わたしの考へ。
だが、光と共に春に息づく何かを、ぢつと見ること、ぢつと聴くことで、静けさと共に、喜びが生まれてくる。
その静かな喜びがあればこそ、自分なりの考へ方、感じ方といふ、いつもの己れの被ひを越えて、こころを拡げてゆくことができる。
それによつて、新しく、生まれ変はつたやうなこころもち。こころの甦り。わたしだけが行ふわたしだけの復活祭。
そして、ありありとした精神は、そこに。
生活を新しく開く鍵は、すぐ、そこに。
しかし、まだ、こころはしつかりと、その精神と結びつくことができない。
ことばといふ精神が降りてくるまでには、聖き靈(ひ)の降り給ふ祭(甦りの祭の50日後)を待つこと。
いまは、おぼろげに、結びつくことができるだけだ。
そんな己れのありやうを観てゐる。
一行目の「世の広がり」とは、同時に、「〈わたし〉の広がり」であり、三行目の「こころの深み」とは、同時に、「世の深み」でもある。
アントロポゾフィーの『こころのこよみ』の第一週目は、世と〈わたし〉とをひとつにし、「広がり」と「深み」とをひとつにする、人のこころのありやうを描いてゐる。
そのこころを導く「考へ」は、ひとりの人として身をもつて立つ「ここ」から、「彼方へと」拡がりわたる方向性を持つてゐる。
そんな己れのこころのありやうを生きることから、この『こころのこよみ』の学びを始めて行くことができる。
世の広がりから、
陽が人の感官に語りかけ、
そして喜びがこころの深みから、
光とひとつになる、観ることのうちに。
ならば、己れであることの被ひから広がり渡る、
考へが空間の彼方へと。
そしておぼろげに結びつける、
人といふものをありありとした精神へと。
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