金沢の武家屋敷庭にて
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
それはその力を世の精神から
きつと新たに汲み上げる。
Ins Innre des Menschenwesens
Ergießt der Sinne Reichtum sich,
Es findet sich der Weltengeist
Im Spiegelbild des Menschenauges,
Das seine Kraft aus ihm
Sich neu erschaffen muß.
より目を開いて、より耳を澄まして、ものごとといふものごとにぢつと向かひあつてみれば、ものごとは、より活き活きとした相(すがた)をわたしに顯はしてくれる。
わたしが花をそのやうに觀てゐるとき、花もわたしを觀てゐる。
そして、わたしの瞳の中に映る相(すがた)は、もはや死んだものではなく、ますます、ものものしく、活きたものになりゆく。
また、わたしの瞳も、だんだんとそのありやうを深めていく。物理的なものの内に精神的なものを宿すやうになる。
花へのそのやうなアクティブな向かひやうによつて、わたしみづからが精神として甦る。
そして、その深まりゆくわたしの内において、花の精神(世の精神)が甦る。花の精神は、さういふ人のアクトを待つてゐる。
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうだ。
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことであつた。
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐた。
しかし、いま、神が人を待つてゐる。世の精神が人を待つてゐる。
世の精神が、己れを見いだすために、わたしたち人がまなこを開くのを待つてゐる。わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在だ。
しかし、植物は、人の問ひかけを待つてゐるのではないだらうか。
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐるのではないだらうか。
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきた。
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐる。
それは、表だつて言挙げされはしないが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものだ。
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉
人といふものの内へと
感官を通して豐かさが流れ込む。
世の精神は己れを見いだす、
人のまなこに映る相(すがた)の中に。
それはその力を世の精神から
きつと新たに汲み上げる。
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