わたしたちは、皆、健やかでありたい。さう希つて生きてゐます。からだが健やかであることはもちろんのことですが、しかし、肝心かなめなのは、こころの健やかさですよね。
その、こころの健やかさは何によつて促がされるのでせうか。
それは、まづもつて、「考へる」ことによつてなのだといふことを、繰り返し、わたしはわたしみづからに諭してゐるのです。
なぜでせう。
なぜ、こころの健やかさは「考へる」によつて促がされるのでせう。
人は、まるまる独り立ちすることによつて、本当に、健やかになりうるからです。
まるまる独り立ちできるのは、「考へる」人であつてこそです。
そのほかのこころの働き、例へば、「感じる」ではどうでせう。
「感じる」においては、確かに、ある部分は、自分自身が、つまり、<わたし>が、感じようとして感じてゐますが、しかし、ある部分は、外の世からの影響・働きかけに大きくこころが動かされてゐます。そして、いはゆるその感じられた「感じ・情」は、やつて来ては、過ぎ去つてゆき、とどまることがありません。
こころにやつて来る「感じ・情」といふお客様は、ある意味、得体のしれない外部からの侵入者でもあり、まづもつては、<わたし>には隅々まで見通すことはできません。「感じる」といふ働きは、人にとつて、かけがへのない営みではありますが、その「感じる」だけにこころの営みが尽きてゐることにおいては、<わたし>は不安定なままです。独り立ちどころではありません。
一方、「考へる」ことによつて稼がれる「考へ」は、それが他者の「考へ」を鵜呑みにしてゐたり、予断や先入観に偏つてゐたり(思ひ込み、思ひ患ひ、などなど・・・)しないかぎり、つまり、まぎれなく、この<わたし>が考へてゐるかぎり、その「考へ」は<わたし>が隅々まで見通すことができます。すべてが、<わたし>の働きによつて生まれて来たものであり、外からの得体のしれない侵入者ではないからです。その「考へ」は、ひとり、<わたし>といふ、内なるもの、高いものからむすばれた宝物だからです。その宝物をもつて、人は、まるまる、独り立ちすることができます。(「高御産巣日神(たかみむすびのかみ)」からの恵みであります😇)
人は「考へる」ことによつて、精神の世と繋がる第一歩を踏み出します。そして、その繋がりが、その人の独り立ちをますます促がすのです。
人のこころは、からだとは自動的に繋がりますが、精神と繋がるには、その人のアクティビティーが要ります。しかし、だからこそ、精神と繋がることでこころはまこと満たされます。アクティビティーこそが人のこころを満たすのです。受動的な消費生活のみでは、人のこころは結局は満たされません。「考へる」は、精神との繋がりを取り戻す、こころのアクティブな働きのはじまりなのです。
そして、そのやうな時を重ねて行くことで、人は、だんだんと、その人の軸が生まれて来る。人は、だんだんと、その人になつてゆく。わたしが、ますます、<わたし>になることができる。それが、人の人たるところであり、「考へる」は、人にのみ授かつてゐる神々しい働きです。
<わたし>が考へる。
そのアクティビティー、その内なる仕事によつてこそ、人はまるまる独り立ちへの道を歩き始めるのでせうし、こころの健やかさ、果ては、からだの健やかさまでもが促され、もたらされる。
さう実感してゐます。
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