2022年03月16日
こころの深みで静かに鳴り響いてゐること
ルドルフ・シュタイナーの『いかにして人が高い世を知るにいたるか』(鈴木一博氏訳)を読んでゐて、そこに記されてあることばに対し、わたし自身、すぐには明晰な意識で応答できないものの、こころの深みで静かに鳴り響いてゐることがらがあります。
それは、生きとし生けるものの命は世の深みにおいてひとつの流れとなつて流れてをり、わたしはその一節(ひとふし)なのだといふ考へを深めてみる練習のことを述べてゐる、次のやうな文章です。(146頁)
「わたしも、その人(犯罪者)も、まさにひとりの人である。わたしがその人の運命を辿らなかつたのは、もしかすると、ひとへにもろもろの事情によつてわたしに授かつた教育のおかげかもしれない。」
「わたしに労力を注いでくれた先生がたが、もし、その人にも労力を注いでゐたとしたら、その人が違つた人になつてゐたであらう。」
「その人から奪はれたものが、わたしには授かつてゐる。わたしのよいところは、まさにそのよいところがその人からは奪はれてゐることに負つてゐる。」
「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」
「そのやうな考へが静かにこころにおいて培はれてほしい。」
この激動の時代において、わたしはどう生きていくことができるだらう。わたしに一体何ができるだらう。
そのことをいま、多くの人がみづからに問ふてゐるのではないでせうか。いや、なんの葛藤もなしに生きてゐる人などゐないはずです。
多くの言論、多くの意見が、この二年以上にわたり世界中を飛び交つてゐます。井戸端会議に似たやうな人と人とのことばのやりとりだけでなく、いま、世界中の大局において、「ことばによる戦争」「情報戦争」が行はれてゐるといつてもいいのではないかと思はれます。
しかし、ことばが粗く、荒く、使はれざるをえないこのやうな時だからこそ、わたしも密(ひめ)やかな学びの値をこれまで以上に深く、強く、確かに、痛感してゐます。
己れのこころの内なる仕事を大切に守りたい、いま、さう希つてゐます。
「わたしはまさに人といふ人のうちのひとりであり、起こることごとのすべてに対してともに責任を負つてゐる。」
上記のシュタイナーによつて記されてゐる考へを、外なる扇動的な行動に移すといふことでは毛頭なく、ただ、ただ、静かにこころの深みに響かせ、培ひ続ける。
その培ひは、全く、外には現れません。
しかし、内なるそのやうな行ひが、まづは、わたしひとりのこころの内でなされること。
その自由なる内なるふるまひが、わたしの強い砦になり、世に向けてのまことの働きかけとなつてゆくのではないか。
そのことに対して明晰な応答はできない、と先ほど書きましたが、やはり、こころの深みで、「その通りだ」とかすかに聴こえて来るのです。
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