2022年03月06日

こころのこよみ(第49週) 〜夜と昼〜



70184517_2506419149438116_8176065075136692224_o-12efd.jpg



「わたしは世のありありとした力を感じる」
 
さう、考への明らかさが語る。
 
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
 
暗い世の夜の中で。
 
そして世の昼に近づきゆく、
 
内なる希みの光を放ちつつ。
 
 
 
Ich fühle Kraft des Weltenseins:
So spricht Gedankenklarheit,
Gedenkend eignen Geistes Wachsen
In finstern Weltennächten,
Und neigt dem nahen Weltentage
Des Innern Hoffnungsstrahlen.
 
 
 
この週の『こよみ』に、向かひ合ふ中で、シュタイナーの1923年2月3日、4日のドルナッハでの講演『夜の人と昼の人』の内容と、今週の『こよみ』が響き合つてきた。
 
 
春が近づいてくる中で感じる、ありありとした世の力。
 
 
たとへ、その力を感じることができても、わたしが考へつつ、その感じを考へで捉へなければ、わたしはそれをことばにして言ひ表すことはできない。
 
 
世のありありとした力も、それに対して湧きあがつてくる感じも、<わたし>といふ人からすれば、外側からやつてくるもの。
 
 
それらに対して、人は、考へることによつて、初めて、内側から、<わたし>から、応へることができる。
 
 
そのやうにして、外側からのものと内側からのものが合はさつて、知るといふこと(認識)がなりたち、ことばにして言ひ表すこともできる。
 
 
わたしたちの外側からたくさんの世の力がありありと迫つてくる。
 
 
そんな外側からの力に対し、わたしたちの内側からの考へる力が追ひつかないときがある。
 
 
そんなとき、たくさんの、たくさんの、思ひやことばが行き交ふ。
 
 
わたしたちの考へる力は、その都度その都度、外の世からやつてくる力に対して応じていかざるをえないが、しかし、そのことに尽きてしまはざるをえないのだらうか。
 
 
対応していくにしても、その考へる力が、明らかな一点、確かな一点に根ざさないのならば、その対応は、とかくその場限りの、外の世に振り回されつぱなしのものになりはしないだらうか。
 
 
その確かな一点、明らかな一点とは、「わたしはある」といふことを想ひ起こすこと、考へることであり、また、その考へるを見るといふこと。
 
 
他の誰かがかう言つてゐるから、かう考へる、ああ言つてゐるから、ああ考へるのではなく、他の誰でもない、この「わたしはある」といふ一点に立ち戻り、その一点から、「わたしが考へる」といふ内からの力をもつて、外の出来事に向かつていくことができる。
 
 
それは、外の出来事に振り回されて考へるのではなく、内なる意欲の力をもつて、みづから考へるを発し、みづから考へるを導いていくとき、考へは、それまでの死んだものから生きてゐるものとして活き活きと甦つてくる。
 
 
そのとき、人は、考へるに<わたし>を注ぎ込むこと、意欲を注ぎ込むことによつて、「まぎれなく考へる」をしてゐる。(この「まぎれなく考へる」が、よく「純粋思考」と訳されてゐるが、いはゆる「純粋なこと」を考へることではない)
 
 
わたしたちが日々抱く考へといふ考へは、死んでゐる。
 
 
それは、考へるに、<わたし>を注ぎ込んでゐないからだ。みづからの意欲をほとんど注ぎ込まずに、外の世に応じて「考へさせられてゐる」からだ。


そのやうな、外のものごとから刺戟を受けて考へる考へ、なほかつ、ものごとの表面をなぞるだけの考へは、死んでゐる。
 
 
多くの人が、よく、感覚がすべて、感じる感情がすべてだと言ふ。実は、その多くの人は、そのやうな、死んだ考へをやりくりすることに対するアンチパシーからものを言つてゐるのではないだらうか。
 
 
ところが、そのやうな受動的なこころのあり方から脱して、能動的に、エネルギッシュに、考へるに意欲を注ぎ込んでいくことで、考へは死から甦り、生命あるものとして、人に生きる力を与へるものになる。
 
 
その人に、軸ができてくる。
 
 
世からありとあらゆる力がやつてくるが、だんだんと、その軸がぶれることも少なくなつてくるだらう。
 
 
その軸を創る力、それは、みづからが、考へる、そして、その考へるを、みづからが見る。この一点に立ち戻る力だ。
 
 
この一点から、外の世に向かつて、その都度その都度、考へるを向けていくこと、それは、腰を据ゑて、その外のものごとに沿ひ、交はつていくことだ。
 
 
では、その力を、人はどうやつて育んでいくことができるのだらうか。また、そのやうに、考へるに意欲を注ぎ込んでいく力は、どこからやつてくるのだらうか。
 
 
それは、夜、眠つてゐるあひだに、人といふ人に与へられてゐる。
 
 
ただし、昼のあひだ、その人が意欲を注ぎつつ考へるほどに応じてである。
 
 
夜の眠りのあひだに、人はただ休息してゐるのではない。
 
 
意識は完全に閉ぢられてゐるが、考へるは、意識が閉ぢられてゐる分、まつたく外の世に応じることをせずにすみ、よりまぎれなく考へる力を長けさせていく。
 
 
それは、眠りのあひだにこそ、意欲が強まるからだ。ただ、意欲によつて強められてゐる考へる力は、まつたく意識できない。


眠つてゐることによつて、意識の主体であるアストラルのからだと<わたし>が、エーテルのからだとフィジカルなからだから離れてゐるのだから。
 
 
眠りのあひだに、わたしたちは、わたしたちの故郷であるこころと精神の世へと戻り、次の一日の中でフレッシュに力強く考へる力をその世の方々から戴いて、朝、目覚める。
 
 
要は、夜の眠りのあひだに長けさせてゐる精神の力を、どれだけ昼のあひだにみづからに注ぎこませることができるかだ。
 
 
そのために、シュタイナーは、その講演で、本を読むときに、もつと、もつと、エネルギッシュに、意欲の力を注ぎ込んでほしい、さう述べてゐる。
 
 
それは、人のこころを育てる。
 
 
現代人にもつとも欠けてゐる意欲の力を奮ひ起こすことで、死んだ考へを生きた考へに甦らせることこそが、こころの育みになる。
 
 
アントロポゾフィーの本をいくらたくさん読んでも、いや、シュタイナー本人からいくらいい講演、いい話を聴いたとしても、それだけでは駄目なのだと。
 
 
文といふ文を、意欲的に、深めること。
 
 
ことばを通して、述べられてゐる考へに読む人が生命を吹き込むこと。
 
 
アントロポゾフィーは、そのやうにされないと、途端に、腰崩れの、中途半端なものになつてしまふと。
 
 
1923年といふ、彼の晩年近くの頃で、彼の周りに集まる人のこころの受動性をなんとか奮ひ起こして、能動的な、主体的な、エネルギッシュな力に各々が目覚めるやうに、彼はことばを発してゐた。
 
 
その力は、夜の眠りのあひだに、高い世の方々との交はりによつてすべての人が贈られてゐる。
 
 
夜盛んだつた意欲を、昼のあひだに、どれだけ人が目覚めつつ、意識的に、考へるに注ぎ込むか。
 
 
その内なる能動性、主体性、エネルギーこそが、「内なる希みの光」。
 
 
外の世へのなんらかの希みではなく、<わたし>への信頼、<わたし>があることから生まれる希みだ。
 
 
その内なる希みの光こそが、昼のあひだに、人を活き活きとさせ、また夜の眠りのあひだに、精神を長けさせる。
 
 
その夜と昼との循環を意識的に育んでいくこと、「内なる希みの光」を各々育んでいくこと、それが甦りの祭を前にした、こころの仕事であり、わたしたちにとつて、実はとても大切なこころの仕事なのだと思ふ。
 
 
 
 
 
「わたしは世のありありとした力を感じる」
さう、考への明らかさが語る。
考へつつ、みづからの精神が長けゆく、
暗い世の夜の中で。
そして世の昼に近づきゆく、
内なる希みの光を放ちつつ。




posted by koji at 20:59 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
■ 新着記事
もののあはれを知る人を育てる教育 〜宮城蔵王 ひのみやこ 主催 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座〜 (01/12)
こころのこよみ(第40週) (01/10)
わたしたちの縄文文明の甦り 宮城蔵王シュタイナー教員養成講座へのお誘い (01/10)
自然に包まれて (01/09)
無名の美 (01/07)
世は美しい 〜1/29(水)ひのみやこ 教員養成オンライン・プレ講座へのお誘い〜 (01/07)
オンライン説明会&トークライブ&プレ講座のご案内と講師陣ご紹介I〜宮城蔵王 ひのみやこ 主催 第1回 日本文化に根ざすシュタイナー教員養成講座〜 (01/07)
こころのこよみ(第39週) (01/03)
シュタイナーのクリスマス論 (12/31)
前田英樹氏の謦咳に接する 〜響き続けてゐるひとつの調べ〜 (12/30)
■ カテゴリ
クリックすると一覧が表示されます。
ことばづくり(言語造形)(242)
アントロポゾフィー(180)
断想(569)
講座・公演・祝祭の情報ならびにご報告(452)
こころのこよみ(魂の暦)(484)
動画(318)
農のいとなみ(1)
うたの學び(88)
神の社を訪ねて(37)
アントロポゾフィーハウス(92)
声の贈りもの(5)
読書ノート(71)
絵・彫刻・美術・映画・音楽・演劇・写真(41)
ことばと子どもの育ち(13)
「ことよさしの会」〜言語造形に取り組む仲間たち〜(11)
■ 最近のコメント
待ち望まれてゐることばの靈(ひ)〜「こころのこよみ」オンラインクラスのご案内〜 by 諏訪耕志 (04/03)
こころのこよみ(第1週) 〜甦りの祭り(復活祭)の調べ〜 by (04/09)
12/10(土・夜)12/11(日・朝)オンライン講座「星の銀貨」を通して〜人への無理解と憎しみについて〜 by アントロポゾフィーハウス (12/07)
穏やかで安らかなこころを持ち続けること、しかし、目覚めること by 諏訪耕志 (04/23)
教育の根本 by 諏訪耕志 (06/21)
■ 記事検索
 
RDF Site Summary
RSS 2.0