2022年02月20日
こころの矢
今日僕等の周囲に提供されてゐる莫大な知識の堆積と、無秩序な事態の樣相に銳敏であれば、僕等の內憂の力が絕えずさういふものに應ずる爲に浪費されざるを得ない。
さういふ新らしい時代の不運を逃避してはならぬ。
僕等はたつた一つの的を射抜くのに十年前の⾭年が思つてもみなかつたほど澤山の矢を射ねばならぬのである。
今日、心の浪費を惜しむものは何事も成就し得ないと僕は考へてをります。
大切な事は、矢といふものはいくら無駄に使つても決して射る矢に欠乏を感ずるといふ事はない、さういふ自信を持つ事です。矢は心のうちから発する、そして人間の心といふものはいつも誰の心でも無限の矢を藏してゐる、さういふ自信を得る事です。
(『現代の學生層』小林秀雄 昭和十一年六月)
これは、昭和11年、1936年に小林秀雄によつて書かれた文章の一部です。
「大正デモクラシー」といふコトバにまみれるやうにして、日本の世相が近代化の成熟、爛熟に至つてゐた約十五年間。その大正時代を経て、昭和に入り、多くの若い人たちが、物質的な豐かさ故の虚しさを抱えて煩悶してゐたことを、わたしは多くの先人たちが殘してくれた文章を通して、知ることができました。
「大正デモクラシーをひと口で言ふと『猫なで声』と答へる」
(山本夏彦)
いつの時代でも、若者たちは、志を己れの内に秘めてゐます。昭和十年代のその秘められてゐる志に向けて、小林秀雄は己れのこころざし・ことばの矢を放つてゐます。
わたしたちは、人生の荒波を超えてゆきながらも、一生涯、学生です。
そして、学生であるといふことは、外からやつてくるものに負けずに、その都度、その都度、目指す的に向かつて、みづからのこころから無数の矢を放ち続ける、その気力とこころざしにあります。
なるほど、的を見据ゑることは、気持ちの良いことでも楽しいことでもないかもしれませんが、その的を見失はずにしつかりと観る見識を養ふことと、さらにその的に向かつて矢を放ち続けて欠乏を知らない、みづからへの信頼を持つことは、この時代、本当に、本当に、必要です。
86年前のかういつた文章を読むことによつて、こころの泉から清い水が湧き出てくるやうな感慨を感じます。いま、かういつたものを滅多に読むことができません。
大きなものに、小さなものに、みずから貢献する力の一部となりたい、といふ若い人たちの志に火を点けること、さういふことばを発し合ふ関係性こそが、ことばの道、文章の道、文藝の道によつて念ひ起こされて行くのです。
アントロポゾフィーといふ精神の運動からですが、人の自由を守り、人の創造性を促す、さういふ運動にわたしも馳せ參じてゐます。
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