東山魁夷「冬華」
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡み合ひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
Ergreifend neue Sinnesreize
Erfüllet Seelenklarheit,
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
Verwirrend sprossend Weltenwerden
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
空気の冷たさはいつさう厳しくなつてきてゐるが、陽の光の明るさが増してきてゐることが感じられる。
わたしたちの感官に、まづ、訴へてくるのは、その陽の光だ。
冬から春への兆しを、わたしたちは何よりもまず、陽の光のありやうに感じ取つてゐる。
しかし、現代を生きてゐるわたしたちは、その外なる陽の光が明るさを増してきてゐる、そのことを感じはしても、それ以上の何かを感じることはほとんどないのではないだらうか。
昔の人は、その陽の光に、あるものを感じ取つてゐた。
それは、ひとりひとりを、神の力と結ぶことによつて、まさしく精神としての『人』とする力だ。
太陽を見上げたときに、次のやうな情を強く感じた。
「この天の存在から、
光とともにわたしたちの内に、
わたしたちを暖め、
わたしたちを照らしながら、
わたしたちに染み渡り、
わたしたちひとりひとりを
『人』とするものが流れ込んでくる」
(『人の生きることにおける、引き続くことと繰りなすこと 1918年10月5日ドルナッハ』より)
しかし、だんだんと、そのやうな情と感覚は失はれてきた。
陽の光を通して感じてゐた神からの叡智がだんだんと失はれてきた。
そして人は、自分の周りの事柄に対しては知識を増やしていつたが、ますます、自分は何者か、自分はどこからやつてき、どこへ行くのかが、分からなくなつてきた。
人といふものが、そして自分自身といふものが、ひとつの謎になつてきたのだ。
そのとき、ゴルゴタのこと、イエス・キリストの十字架における死と、墓からの甦りが起こつた。
もはや、物質としての太陽の光からは、わたしたちを『人』とする力を感じ、意識することはできない。
しかし、キリストがこの世にやつてき、さらにゴルゴタのことが起こることによつて、もはや外の道ではやつてくることができない力、人の最も内なる深みから、精神から、自分を『ひとりの人』とする力が立ち上がつてくる可能性が開けた。
イエス・キリストはみづからをかう言つた。「わたしは、世の光である」。
ふたたび、ひとりひとりの人に、みづからを『ひとりの人』として捉へうる力がもたらされた。
その力は物質の太陽の光からでなく、精神の光から、もたらされてゐる。
わたしたちは、1月から2月へかけて、明るくなりゆく陽の光からのそそりとともに、精神的な観点においても、内なる陽の光からのそそりを捉へてみよう。
さうすることから、きつと、わたしたちは、みづからの出自を改めて明らかさとともに想ひ起こすことができる。
「わたしは、ひとりの<わたし>である」と。「わたしは、そもそも、精神の人である」と。「<わたし>は、ある」と。
キリスト、そしてゴルゴタのことの意味。
わたしたちは、そのことを、「いま、想ひ起こす」「念ふ」ことができる。
「新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ」
そして、明るさを増してきてゐる陽の光によつて、外の世において、命が、植物や動物たちの中で繰りなしてくる。絡みあひながら、芽生えながら。
さらに、わたしたち人は、秋から冬の間に、まぎれなく考へる力を内において繰りなしてきた。
考へる力には、意欲の力が注ぎ込まれてこそ、まぎれなく考へる力となる。
考へる力に、創りなす意欲が注ぎ込まれてこそ、人はまぎれなく考へる力において、自由になりうる。
外の世に、どんなことが起こらうと、どんな出来事が繰りなされやうと、こころに、意欲的に考へる働きを繰りなして行くことで、わたしたちは、みづから自由への道を開いていくことができる。
日々、自分に向かつてやつてくるものごとのひとつひとつを、自分に対してのメッセージとして受けとり、考へていき、そして振舞つていくことによつて、開けてくる道がある。
その道は、『ひとりの人』としてのわたしを、自由へと、導いていくだらう。
新しい感官へのそそりに捉へられ、
こころに明らかさが満ちる。
満を持して精神が生まれたことを念ふ。
世の繰りなしが、絡みあひながら芽生える、
わたしの考へつつ創りなす意欲とともに。
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