
冬の夜は、本と語り合ふ時間です。本と対話するのです。
わたしは、本を読むとき、できるならば、その本と語り合ひたいなあと思ひながら読んでゐます。
本とは、ひとりの人が血と汗と涙をもつて書き上げたものであると思ふのです。
ひとりの「人そのもの」が、そこに鎮まつてゐる。
だから、そんなひとりの人と語り合ふとき、わたしはその人のことを信じたい。
はじめから疑ひつつ、半身に構へて、その人に向かひ合ひたくない。
さう、本を読むときは、著者とその著作に全信頼をもつてその本に向かひ合ふのです。
なぜなら、ひとつのことを疑ひ出すと、次から次へと疑ひにこころが占領されて、しまひには、その本との対話など全く成り立たなくなるからです。
こちらのこころのすべてをもつて、一冊の本を読む。
人を尊び、敬はなければ、対話は成り立ちません。
本の著者を尊ばなければ、本との親密な対話は生まれません。
しかも、一度では埒が明かないので、何度も何度も語らふがごとく、一冊の本を繰り返し読み重ねます。
さうしてこそ、その本は、その人は、己れの秘密を打ち明け始めるのです。
また、皆が読んでゐる本だから、その本がベストセラーだから、その本を読むのではありません。
わたしは、こころから会ひたい人と会ふやうに、こころの奥底から読みたいと思ふ一冊の本を読みたい。
そのやうなこころの吟味に適ひ、繰り返される読書の喜びに応へてくれるのは、よほどの良書です。
時の試練を越えて生き残つた「古典」。
そして、そのやうな古典は、古(いにしへ)と今を貫いてゐて、現在進行形の問ひを読む人に突き付けてきます。
永遠(とこしへ)です。
わたしが、ここ数年、変はらず語らひ続けさせてもらつてゐるのは、『古事記(ふることぶみ)』と『萬葉集』と保田與重郎全集全四十巻、そして、ルードルフ・シュタイナーの全集から限られた数の翻訳されたものです。
『古事記』は本居宣長の『古事記伝(ふることぶみのつたへ)』で、『萬葉集』は鹿持雅澄の『萬葉集古義』で、ルードルフ・シュタイナーは鈴木一博氏の翻訳で、読んでゐます。
ことばといふもの、日本語といふものに、すべてを賭けた先人の方々との対話。読書の豊かさ。ひとりとひとりであることの真剣勝負の喜び。
残りの人生のすべてをかけても、語らひは決して尽きないのです。
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