2021年10月25日

神なる鹿



IMGP0077.JPG



秋の奈良。春日大社をはじめ摂社を巡り、こころの内に敬虔さが降りて来る恩恵を深く感じさせてもらつた後、参道で一匹の鹿と目が合ひました。


他の鹿たちは、餌を求めてうろつき回つてゐるのに比して、その鹿は静かに脚を曲げて座つてゐるのでした。


わたしも立ち止まり、数秒間、その鹿と眼差しを交はしながら、「優しい目をしてるね。ありがたう」とこころの内に呼びかけると、明らかにその鹿は、微笑み始めました。


そして、その眼差しに、なんとも言へない、慈愛、慈しみを湛へる光を宿し始めました。


その光に照らされ、包まれて、神がをられる、さう、ぢかに、わたしは感じました。




日本語における「神」は、英語における「God」ではなく、神々しいものすべて、精神の通ふものすべてを、そのやうに、呼んでゐたのですね。


ですので、山にも風にも海にも、狐にも、牛にも、そして一木一草にも、神々しいもの、普段のありやうを超える何かを感じるものには、「神」と名付けたのでした。さうして、それらの「神々」は、人のこころの営みを見通す、見晴るかす、見守る、といふことでした。


よつて、我が国では、「現人神(あらひとがみ)」は当然をられるわけです。西洋の観点で捉へるべきものではありません。


話がずれました。




要(かなめ)のことは、こころに宿す敬虔さ、敬ひの情のあるやなしやで、外の世は、思ひも寄らぬ秘密を打ち明けることもあれば、沈黙することもあるのだといふことなのです。





※写真の鹿は、ここで述べさせてもらつた鹿ではなく、春日大社にたどり着く前にカメラに収めさせてもらつた鹿たちです。当の神々しい鹿は、わたしには写真に撮ることはできませんでした。


posted by koji at 09:06 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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