2021年09月22日

よくみる人、よく考へる人






最近、解剖学者の養老孟司さんが話してをられる動画を観まして、年老いた人が、このやうに、当たり前でありながら本質を見抜いた高い見識をまつすぐにことばにして下さることのありがたさをひしひしと感じたのでした。

そして、こんなことを思つたのです。


人と人との集まりの中で、いはゆる人間関係における世代間での断絶といふやうなものがありますね。


もしかしたら、いまは、その集まりそのものが成り立つてゐないのかもしれませんが・・・。


いまから100年前、20世紀初頭、理想を求めてルードルフ・シュタイナーのもとに集まつた人たちの中でも、その世代間の断絶といふものから生まれる情のせめぎ合ひが激しくきしんださうです。


当のシュタイナーは、若い世代には「もつと謙虚になつて、これまでに古い世代が積み重ねてきたものを敬ひつつ認めることを学んではどうか」と問ひかけ、古い世代には「変に若ぶらずに、しつかりと精神において老いるやうに、こころにおいて熟するやうに」と諭しました。


しかし、おほもとの問題は、激変しようとしてゐる時代の精神そのものの中で、古いものにしがみついてゐる古い世代と、新しく生まれ変はらうとしてゐるものを先取りしてゐる若い世代との間の葛藤であることを、シュタイナーは勿論見抜いてをりました。


さらに、より根源的なことは、よくみて、よく考へてゐる人たちと、よくみず、よく考へてゐない人たちとが、いつの代にも存在してゐて、争ひは、よくみず、よく考へない人たち同士の間で起こつてゐるといふことです。


よくみず、よく考へない古い世代と、よくみず、よく考へない若い世代とがぶつかり合つてゐたといふことではないか、とわたしは思ふのです。


つまり、シュタイナ―のもとに集まるアントロポゾーフの人たちの例で言ふならば、ぶつかり合つてゐる人たちは、まこと、いま、何が本質的に大切なことで、何が非本質的なことであるかをみづからで、よくみず、よく考へてゐない。


本質的なところとさうでないところを見分ける、その力は、ひとり、まぎれなく考へることからしか生まれない。


そのためのひとつの学びの手口として、シュタイナーの「ことば」を、みづから、よくみること、そしてよく考へることがあるわけですが、皆、シュタイナーから発された「ことば」を、分かつたつもりになつてゐるだけで、みづからで、よくみてゐない、よく聴いてゐない、よく読んでゐない、よく考へてゐない。(特に次の二冊の書。『自由を考える(自由の哲学)』と『いかにして人が高い世を知るにいたるか』)


自分の立場や、自分にとつてこれまでのお決まりの思ひ方、感じ方、考へ方にしがみついたまま、そこからものを言ふことによつて、わたしたちは、万人が万人の敵となる、あの黙示録に予言されてゐるあり方へと突き進んでゐるのでせう。


本当に、2021年を生きてゐるわたしこそが、自戒するところです。


賢者のことばを一言一句厳格に捉えることをもつて、それで足れりとしてゐる老人も、自由にものを言ふことこそが人であることの証だと思ひ込んでゐる若者も、みづからを律すること、みづからを研ぐこと、みづからを磨くことによつてのみ、「ことば」は人と人とを繋ぐ自由な何かになりうる、といふことを学ぶ必要があるやうです。


世代間の断絶などといふものは、幻である。さう思ひます。


posted by koji at 11:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。