2021年09月19日
時間どろぼうと言語造形
以下の文章は、8年前に二人の娘たちとの家庭読書会のことを書いたものです。
いま、中学生一年生となつてゐる次女と、ふたりで『源氏物語』を毎日、読み継いでゐます。
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小学二年生の長女に、まだ少し早いかもしれないのだけれども、ミヒャエル・エンデの『モモ』の読み聞かせをここのところずつとしてゐます。
5歳の次女も、分かつてても分かつてなくても、ぢつと耳を澄まして聴いてゐる。
今日は、前半のクライマックスと言つてもいい、「時間どろぼう」の章に差し掛かつてきた。
「時間どろぼう」の語りかけることばにこころを奪はれてしまつた人は、いかに時間を節約して、いかに無駄を省き、いかに計算通りに効率的に生きていくかに血道を上げていくことになる。
その生き方、そのこころのあり方が、他の誰でもない、まさに俺のことではないか!
「時間が足りない」「お金が足りない」「・・・が足りない」「足りない」「足りない」・・・。
そんな、思考にもならない深い感情のところで何かに急かされるやうに意識が焦つてゐる。
そして、どれほど子どもの前で「早くしなさい!」「ぐずぐずするなつ!」といふことばを連発してゐることだらう。
自分自身のあり方が戯画として描かれてゐるのを観て、『モモ』を読むそのたびごとに、こころが治癒されるのです。
「時間どろぼう」に取りつかれてゐた自分自身をこの読書が治癒するのです。
この本を読むことで、お父さん自身の呼吸がだんだんゆつくりとなり、表情も豊かに優しくなつてくるのを、子どもたちも感じるのでせう。
「お父さんやお母さんが『早くしなさい!』なんて言ふ時、時間どろぼうがお父さんやお母さんの背中に張り付いてるねん」なんてことをわたしが話しても、娘たちはにこにこして、親のそんなあり方を懐深く広く受け止めてくれる。
次女がこんなことを今日言つたので大笑ひしました。
「生まれてくる前に、神さまにお願ひしてん。時間どろぼうさんが一杯ゐるところぢやなくて、言語造形さんが一杯ゐるところに生まれますやうにつて。そやからお父さんも言語造形さんになつてん」
さうや、さうや、言語造形をするから、普段よりもずつと息を深くして間(ま)をもつてことばを話すことができるな。言語造形さんは、時間どろぼうさんを追ひ払ふんや。
そんなことを娘たちと話して笑ひながら、本当に言語造形さんがある意味をいつもよりも深く感じたのでした。
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