2021年09月15日

アントロポゾフィアの希ひ



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青森県平舘の海



様々な学びや体験を提供する機会がわたしたち現代人には用意されてゐます。その内のひとつとして、アントロポゾフィーがあります。では、そのアントロポゾフィーが他の学びや体験と異なるところとは何でせう。


それは、こころの内に精神を求める人に応へようとしてゐることです。その精神とは、単なる考へや情報や気持ちよさやワクワクをもたらすものではなく、生理的、心理的な次元を含みつつ、精神的な次元における「いのち」を人にもたらすものです。


精神から流れ出づる「いのち」とは、人を浮かれさせたり、単なる感情的な熱狂にいざなつたりしません。


精神は、静かで、落ち着いた安らぎのうちに、確かで明瞭な内容のあることばを語ります。アントロポゾフィーとは、その精神のいのちを人々にもたらさうとする「ことば」なのです。ですので、「ことば」とは、いま、人の意識を映し出すものなのです。


アントロポゾフィーといふ精神(アントロポゾフィア)は、そもそも、「はじめにありしことば」が、いま、人の内なるものを響かせ得る「ことば」、人の高い意識を響かせ得る「ことば」として、世に発されることを求めてゐます。


わたしたちアントロポゾフィーハウスは、このアントロポゾフィアが求めてゐることを明確に意識して仕事をしていきたいと希つてゐます。それは、わたしたち日本の民が、母国語である日本語をもつて、明確に、心臓の脈打つ暖かさから、精神の「ことば」、精神のいのち溢れる「ことば」を語り出すことへと、人の教育を創つてゆくことです。国語教育を基にする人の教育です。幼な子から人生の終はりに近づいてゐる人たちまで、「ことば」を愛しみ、育て、後世の人たちに、まことの、善き、美しい生き方を伝へてゆけるやうな国語の力を養ふことです。


この世で、「ことば」を授かつてゐるのは、人のみです。人であることの証として、その「ことば」をみづからどう育ててゆくか。


アントロポゾフィーの学び手としては、まづもつて、ルードルフ・シュタイナーのことばをどう日本語で、どうみづからのことばで語るか。そこには、尽きせぬ精神からのいのちが泉のやうに沸き上がつてくるがゆゑに、学びには、こと欠きません。


共に、アントロポゾフィーの文献を熱心に読み込んで行きませう。基本文献から始まり、貪欲に、数多ある講演録を読み込んでいきませう。そして、共に、そこから、わたしたちに何ができるかを、語り合つてゆきませう。


さらには、ことばを表現する術を身をもつて学んでいきませう。小手先ではなく、全身全霊で知を、叡智を、語りゆきませう。さうして、わたしたちから、まづ、美しさを体現していきませう。他人ではなく、まづ、〈わたし〉から、です。


オンラインでも何でも、人は人と会ひ、ことばを交はし合はねばなりません。アントロポゾフィーにおいては、そのやうな人の集ひが欠かせません。わたくし諏訪は、アントロポゾフィーが真摯に語られる場を創るために、どこへでも足を運ばせていただきます。


わたしが足を運ぶすべてのところで、出会ふおひとりおひとりとそのやうな場を創りなしてゆきます。アントロポゾフィーを語り、アントロポゾフィーを生きる場を、です。



posted by koji at 15:18 | 大阪 ☁ | Comment(0) | アントロポゾフィーハウス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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