
今日、中学校を休んでゐる(やめた?)次女と、ゆつくりと話をすることができました。
多くの同級生たちが、本当に自分が考へてゐることや感じてゐることを表現せず、彼ら、彼女らは、友だちに嫌はれず、先生や親に怒られないやうなキャラクター設定を自分でしてゐて、そのいくつかのキャラクターを上手にその都度その都度出してゐるだけだ、と。
だから、ずつと仲良くはやつて来たけれども、多くの同級生たちの喜びが、お腹の底から全く共有できない、と。
学校の先生方も皆一生懸命やつてをられるのだけれど、その授業にこころを動かされたことがない、と。
中学一年生の一学期まで学校に通ひ続けてゐたが、本当に辛かつた、と。
上辺の喜びでなく、こころの底からの喜びが学校ではひとつもなかつた、と。
次女が言はうとしてゐる「喜び」とは、きつと、この世に生まれてきた意味に触れる時に訪れる喜びなのですね。
誰かに褒められたり、好かれたりすることで得られるものとは、違ふやうです。
この世に生まれてきた意味に対する予感。
さう、わたし自身も、その予感に従つて、ここまで生きて来たやうに思ふ。
取り繕ふことなく、誤魔化すことなく、そして、焦ることなく、その意味を予感しながら、道を歩いて来たし、これからも歩いてゆく。
そんなわたしのことも話し、彼女もたつぷり話してくれて、午後のひとときが過ぎ、またそれぞれ、自分の部屋に戻つて本を読み始めました。
かうして同じ家の中で過ごすことも、後から思へばかけがへのない時間だつた、と想ひ起こすこともあるのかもしれません。