世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己れから生まれる人の己れが、
時の流れに沿つて熟させていく。
Das Licht aus Weltenweiten,
Im Innern lebt es kräftig fort:
Es wird zum Seelenlichte
Und leuchtet in die Geistestiefen,
Um Früchte zu entbinden,
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
鈴木一博氏が「こころのこよみ」の解説されてゐて、この週のこよみにこのやうな文章を記してをられる。
そもそもひとつであるところが、
外にあつて「光」と呼ばれ、
内にあつて「意識」と呼ばれる。
内と外はひとつの対であり、
リアルなところは、内と外のあはひにある。
ゲーテのことばにかうある。
「なにひとつ内にあらず、
なにひとつ外にあらず /
そも、内にあるは外にあるなり」
(Nichits ist drinnen,nichits ist draußen;/
Denn was innen,das ist außen.「Epirrhema」)
夏の間、外に輝いてゐた陽の光が、いつしか、こころの光になつてゐる。
そのこころの光は、萌しであり、これから、だんだんと、長けゆく。
そのこころの光は、感謝の念ひであり、だんだんと深まり、秋から来たるべき冬に向けて、だんだんと、熟してゆく。
その成熟は、冬のさなかに訪れる新しい年の精神の誕生を我がこころに迎へるための、なんらかの備へになる。
それは、太陽の輝きの甦りに向けての備へである。
むかし、我が国では、そもそも、その冬至の頃(旧暦の十一月の終はり頃)に、新嘗祭(にいなへのまつり)を毎年行つて来た。
一年の米の収穫には、いい年もあれば、悪い年もある。
しかし、どんな年であれ、米(むかしは米のことを「とし」と言つた)を授けて下さつた神に対する感謝の念ひを育みつつ、日本人は生きて来た。
この感謝の念ひが、秋から冬への移り行きの中に生まれる寂しさ、孤独、侘しさといつた情を凌ぐ、静かな元手となつてゐた。
それが、また、こころの光であつた。
西の国々では、冬至の直後にイエス・キリストの誕生を祝ふクリスマスがある。
そして、キリストの誕生とは、「ひとり生みの子ども」「神の子」「ひとりであることのもたらし手」「世の己れから生まれる人の己れ」の誕生であつた。
西洋では、一年の稔りへの感謝の念ひを年の終はりにすることに代はつて、キリストの誕生を寿いだのだ。
それは、「ひとりであること」の稔りであつた。
その「ひとりであること」の自覚の光が、秋から冬に向けて熟して行く。
憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥 芭蕉
人は、「ひとりであることの自覚」から生まれる寂しさといふ情にまで徹してみることで、鬱々としたもの思ひを突き抜けることができる。
そして、この「ひとりであること」の自覚の上にこそ、キリストは寄り添つてくださるのかもしれない。
そして、「ひとりであること」の自覚を持つひとりの人とひとりの人が出会ふところにこそ、精神は息づく。
他を否むところからではなく、他に感謝することからこそ、人のうちに己れが生まれる。
他に感謝するとは、ひとりの人としてのわたしが、世の己れを世の己れとしてしつかりと認めることであり、その他の己れを認める力が、わたしの己れをひとり立ちさせるのだ。
ひとりの他者も、世である。
芭蕉は、また、この「閑古鳥」も「ひとり」であることを認め、ひとりであるもの同志として、その閑古鳥との精神の交流、閑古鳥への感謝をも感じてゐる。
世の拡がりから来る光が、
内において力強く生き続ける。
それはこころの光となり、
そして、精神の深みにおいて輝く。
稔りをもたらすべく、
世の己れから生まれる人の己れが、
時の流れに沿つて熟させていく。
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