2021年08月15日

見渡すこと、見晴るかすこと






毎日の暮らしと仕事を通して、さまざまなことを経験し、体験する中で、時に、本質的なことと本質的でないこととがごっちゃになつてしまふことがあります。


そんな一日を過ごしたあと、夜眠る前に、わたしは、よく静かな丘の上に登ります。こころの中の丘ですが。


そのこころの丘の上から、丘のふもとを見下ろすと、自分のしたこと、誰かがしたこと、様々なことを、距離をもつて見ることができます。


距離をもつことで、それらひとつひとつのことが、まこと本質的に大切なことなのか、本質的でないことなのかが、見えて来ます。本質的でないことにも関はらず本質的なこととごっちゃにして自分はそのことにいかに拘泥してゐたのかも、見えて来ます。


安らかに見渡すことができ、また、その結果、遠くを見晴るかすことができる。それは、光を、丘のふもとのみづからのこころまるごとに当て、また同時に細やかに当てるといふ感覚です。


そして、その光は、丘の上に登つたからこそ、安らかに見上げることのできた天の夜空に瞬く星々からもらつた光でした。それは、精神・靈(ひ)の光です。


我が国の古代から、ずつと、すめらみこと(天皇)も、山や丘や台地の上に立たれ、まさしく「国見」をしました。


わたしの住んでゐる大阪の住吉、帝塚山といふ上町台地の南端に位置するところにも、明治天皇が国見をなされた聖跡があります。


それは、きつと、精神・靈(ひ)の光をもつて、安らかに国を見渡し、見晴るかすことによつて、本質的なことを本質的でないことから分かち、さうして、すめらみことご自身を通して天から降りて来る光と国とをむすぶ密(ひめ)やかな営みであるのでせう。


そのやうな密儀のありやうが、萬葉集開巻第二首目にすめらみことその方により詠はれてゐます。


その調べをいま一度聴くことで、わたしたちもその丘の上に立つことの風儀、身振り、手振り、精神を感じること、萬葉集はそのことを促してくれるのです。


大和には 群山(むらやま)あれど 
とりよろふ 天(あめ)の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(けぶり)立ち立つ
海原は 鴎(かまめ)立ち立つ 
うまし国ぞ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は
                 第三十四代・舒明天皇


わたしたちは、いま、その密やかな行ひを、みづからのこころの内にて密やかに行ふことができる時代に生きてゐます。


密やかな行ひを軽んじたり、無視したりするのは、20世紀で終はりを告げられた、古い価値観、先入観となつてゐます。


そして、その密やかな行ひこそが、外の世を和やかなもの、よきものへとなりかはらせて行くことのできる、大切なことなのだといふことを知つてゐるのは、わたしたち日本の人かもしれません。


デモ行進などは、この国の人は、そもそも、好かないのかもしれません。


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