2021年08月10日

ことばには、氣をつけないと



たとへば、「平和」や「差別反対」や「自由・平等・愛」といふやうなことば。意味を汲めば、すこぶるいいことばです。


しかし、それらのことばが声高に語られるほど、そのことばを語つてゐる人、語り合つてゐる人の内から、そのことばと正反対のものが溢れ出して来ることがあることを、人生を生きてゐると体験するわけです。


わたしが携はつてゐるアントロポゾフィーにおいても、「神秘的な」とか、「経済の友愛」だとか、様々なことばを聞きます。


しかし、そのやうな「ことば」が、そのことばを発してゐるその人自身を裏切つてゐることがままあることを、人生の苦味として経験するのです。


ですので、江戸時代の国学者・本居宣長が、「死んだあとのことや、見えない世について、あれこれ沙汰することは愚かだ。さういふこころのありやうを、からごころと言ふのだ」と言ひ続けたことにも、わたしは納得するのです。


彼は、「死んだ人は、皆、黄泉の国に行く」とだけ言ひ、それ以上言はないことによつて、自分自身をはじめとして知性を駆使しようとするすべての人に、その「からごころ」が世に振り回されることを警戒させようと懸命にしてゐました。


なぜなら、人は、ややもすると、大切なことを余りにも安易にことばにしてしまふことで、そのことばが指し示さうとしてゐる精神を裏切ることになることを、彼はよく知つてゐたからだと思はれるのです。


わたしは、彼以上に、見えない世と神のことを、うやまひ、とうとび、親しみつつ、ことばの研究を重ねた人を、同時代に見いだすことは難しいです。彼は、いにしへのことばから、いにしへのものごとを知りゆき、さらに、いにしへのこころを、精神を知りゆくことを自分の生涯に課しました。ことばと、ことと、こころは、ひとつなり、と言ひました。


ことばを安易に使ふことから、できうる限り離れて、ことばに仕へるがごとく、ことばを大切に用ゐることによつて、そのことばの真意がことばそのものから語りだされるのを待つ、聴きとる、そのこころの作業に専心し、「からごころ」とは異種の「やまとごころ」を人に想ひ起こさせようとしてゐたのです。その「やまとごころ」は、何も過剰なナショナリズムを煽るやうなものではなく、人としての素直なこころを指します。


ですので、アントロポゾフィーにおいても、密(ひめ)やかな境に入り込まうとするゆゑに、ことばを大切に扱ふ、ことばに仕へる、その意識を育むことが、本当に重きをなすことだと思はずにはゐられないのです。


たしかに、人が、ことばを語ります。


しかし、ことばも、人を語るのです。


※「からごころ」とは、当時のいはゆる「グローバルスタンダード」としての中国からの文明・文化の文脈に則つた、もののの考へ方をしたがるこころのことです。




posted by koji at 08:11 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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