2021年08月08日

片鱗と真髄



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この二十一年間、おもに、第二の七年期を生きてゐる小学生の年代の子どもに、ことばを話し、語り、謡ひ、演じる、言語造形といふ芸術を授けて来ました。それは、芸術といふ精神の滴を、その子その子に注ぐ営みであり、その子に芸術の片鱗を味はつてもらふ営みでした。


そして、その延長線上に大人の方々との言語造形の取り組みがありました。つまり、大人の方々にも、週に一回から月に一回のペースで、小学生の時のやうなこころもちに帰つてもらひ、芸術の片鱗に触れてもらふ営みをしてきました。


子どもも大人も、そのやうな芸術の片鱗に触れることが、いまの代には、欠かせません。


なぜなら、現代においては、ことばをはじめとしてすべてを、静止した、死んだ、決まり切つたものとして、扱ふ、処理する、軽んじる、そんな趣きが世を支配してゐるやうに感じるからです。


わたし自身、28歳でアントロポゾフィーと言語造形に出会ふまで、ことばを、生きたものとして、うやまひの念ひをもつて、ていねいに客として迎へ、響かせ、空へと送る、そんなことばとの付き合ひ方を、誰も教へてはくれなかつた。


自分自身と芸術とのそのやうな親しく密(ひめ)やかな関はりを育み始めるのには、乳歯が生へ変はり始める小学生の頃からが、うつてつけなのだといふアントロポゾフィーからの見識を活かして仕事をさせてもらつて来ました。そして、大人の方々にも、そのやうに、子どもの頃に帰つていただいて、その芸術の片鱗に触れる時間を盛んに設けさせてもらひました。


しかし、わたしも、人生の半ばを、きつと、とほに越してゐる今、考へ、感じてゐることがあります。


片鱗に触れていただくやうな機会を創り出して行くことはこれからも盛んにして行くのですが、さらに、より専門の、この芸術の「仕事」へのこころざしをもつ人との学びの場をも創つてゆくことです。


それは、わたしが師から長い年月を通して身をもつて教へていただいたこと、芸術の片鱗ではなく真髄に触れる、さういふ毎日の場を生み出すことです。


芸術の真髄に触れるとは、その人がその人の真髄に触れるといふことでもあります。それゆゑに、わたしの場合も、その作業は、必然的に、重く、深く、厳しいものでした。真髄に触れようとすると、必然的に、それに抵抗するかのやうに、手前勝手な感じ方、考へ方の癖や、好き嫌ひや、他者を責めるやうな思ひ込みが表面化して来ます。いはば、エゴが溢れ出て来るのです。


そこに向き合ひ、そこを認め、そこを赦し、そこを凌いで行くことは、生半可なことではない内なる作業です。


わたしも、大の大人であるのにもかかはらず、どれほど涙を流して、自分の技量のなさ、度量のなさに地団太を踏みながら悔しがつたことでせう。そこをくぐり抜けることが、一番大切なことだとわたしは確信してゐます。それなしには、世に仕へ、捧げるといふ仕事をする人にはなりえない、といふことを身をもつて教へてもらへたことが、師から授かつた本当に大切な宝物です。


そこで、いまのわたしが問ふべきは、自分自身はその真髄に触れてゐるのか、触れ続けてゐるのか、といふことです。


出来てゐるか、出来てゐないかではなく、そのことの大切さに目覚めてゐるか、ゐないか、といふことであり、その意識の道の上を歩いてゐるか、ゐないかといふことです。


人それぞれに、学びの道はあると思ふのです。


もちろん、この芸術の片鱗に触れていただく機会も、これまで以上に、どんどん創つて行きます。


ただ、そんな専門の、真髄に触れる、仕事としての芸術の道があるのだ、といふことをも、身をもつて提示して行くことができたら、そんなことを考へてゐます。







posted by koji at 13:58 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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