2021年07月29日

こころのこよみ(第17週) 〜ざわめきが止む〜






世のことばが語る、

そのことばをわたしは感官の扉を通して

こころの基にまでたづさへることを許された。

「あなたの精神の深みを満たせ、

 わたしの世のひろがりをもつて。

 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」



Es spricht das Weltenwort,
Das ich durch Sinnestore
In Seelengrunde durfte fuhren:
Erfulle deine Geistestiefen
Mit meinen Weltenweiten,
Zu finden einstens mich in dir.  



閑さや岩にしみ入る蝉の声  松尾芭蕉


「蝉の声」は耳に聞こえる。時に、聴く人の全身を圧するやうに鳴り響く。


「閑さ」はどうだらうか。「閑さ」は、耳を傾けることによつて、聞き耳を立てることによつて、初めて聴くことができるものではないだらうか。


「閑さ」とは、本来、耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものではないだらうか。


芭蕉は、「蝉の声」を通して、「閑さ」を聴いたのだらうか。「閑さ」を通してあらためて、「蝉の声」が聞こえてきたのだらうか。


そして、芭蕉は、「蝉の声」の向かうに、「閑さ」の向かうに、何を聴いたのだらうか。


芭蕉は、旅しながらメディテーションをする中で、そのふたつの聴覚の重なりの向かうに、己れが全身全霊で何かを受けとめるありさまを「おくのほそ道」に記した。


それは、芭蕉によるひとつの精神のドキュメントであり、心象スケッチであり、春から秋にかけての「こころのこよみ」であつた。


この週の『こころのこよみ』に、「世のことばが語る」とある。


わたしもことばを語る。


しかし、世がことばを語るとはどういふことだらうか。「世のことば」が語るとはどういふことだらうか。


その「ことば」は、この肉の耳には聞こえないものである。耳といふ感官を超えた「感官」によつて受け止められるものである。メディテーションを通して、「こころの基にまでたづさへることを許された」ことばである。



『いかにして人が高い世を知るにいたるか』より


人が人といふものの中心を いよいよ人の内へと移す。
人が安らかさの一時(ひととき)に内において語りかけてくる声に耳を傾ける。
人が内において精神の世とのつきあひを培ふ。
人が日々のものごとから遠のいてゐる。
日々のざわめきが、その人にとつては止んでゐる。
その人の周りが静かになつてゐる。
その人がその人の周りにあるすべてを遠のける。
その人が、また、そのやうな外の印象を想ひ起こさせるところをも遠のける。
内において安らかに見遣るありやう、紛れのない精神の世との語らひが、その人のこころのまるごとを満たす。 
静けさからその人への語りかけがはじまる。
それまでは、その人の耳を通して響きくるのみであつたが、いまや、その人のこころを通して響きくる。
内なる言語が ―内なることばが― その人に開けてゐる。
 

この夏の季節にメディテーションをする中で、精神の世が語りかけてくることば。


 あなたの精神の深みを満たせ、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内に
 わたしを見いだすために。


この「いつか」とは、クリスマスの頃であらう。この週の対のこよみが、第36週である。
http://kotobanoie.seesaa.net/article/472735195.html


そこでは、「世のことば」キリストが、人のこころの深みにおいて密やかに語る。


芭蕉は、俳諧といふことばの芸術を通して、四季の巡りと共に深まりゆくこころの巡りを詠つた人である。


彼はいまも、夏の蝉の声といふ生命が漲り溢れてゐる響きの向かうに、静けさを聴き取り、その静けさの向かうに、「世のことば」を聴いてゐるのではないか。



世のことばが語る、
そのことばをわたしは感官の扉を通して
こころの基にまでたづさへることを許された。
「あなたの精神の深みを満たせ、
 わたしの世のひろがりをもつて。
 いつかきつとあなたの内にわたしを見いだすために」




posted by koji at 18:50 | 大阪 ☀ | Comment(0) | こころのこよみ(魂の暦) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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