先日は、自分がどれだけ他人様に支へられて生かしてもらつてゐるかを感じることができた、宝物のやうな一日でした。
長年、言語造形といふ芸術を、企業に勤めてをられる方々に紹介する仕事をさせてもらつてゐます。ひと月に二・三度づつしながら、もう二十年近くになると思ひます。
芸術ですので、ひたすらに、その人その人のことばの感官に働きかけ、感覚の育みを促すやうなスタイルで、ずつと、言語造形といふことばを話す芸術をその企業の方々と分かち合つて来たのです。
しかし、昨日は、ここ一年半のコロナウイルス禍による影響でなさざるをえないオンラインによる時間となつたのですが、そこで、古代ギリシャ時代に行はれてゐた五種の体育についての講義をさせてもらつたのです。
それは、からだの行為による無意識の領域にまで働きかける学びですので、その講義の質も、けだし、密(ひめ)やかな教へ、オクルトな教へにならざるをえないものでした。
それは、宙に浮いたやうなものではなく、徹底して、からだにまで降りるリアリティーのあることばで語られる必要のある事柄でした。
この状況下で、なんとか、企業における仕事に毎日勤しんでをられる方々が、このやうなことばをどう受け止めて下さるだらうか・・・。そんな危惧をわたしは勝手に抱いてゐたのでした。
わたしが語り終へた後、口々に皆さんが仰られたことばに、わたしはかなり驚きました。
この十数年間、やつてきた言語造形にこんな深みのある思想・精神が裏打ちされてゐたことを、今日、知ることができたと感じてゐる、嬉しい、と。
芸術に対するこのやうな信頼。精神に対するこのやうな開かれたこころ。
これは、かういふ場を創り続け、維持し続けるために、意識をもつて担当して来た方の、そして、社会の真っ只中を生きつつも、このやうな芸術的な営みにこころを開き続けて来られた方々のお蔭でしかありません。
人が、社会の中で、お金を得ること以外のたいせつな何かに長い年月の間、意を注ぎ続けることの難しさを思ひますと、わたしは、本当に、本当に、こころから感嘆の念ひに打たれ、そして、わたしも、また、その人と人との関はりの中で生かされていることを感じるのです。
また、写真のやうな日が戻つて来て、からだまるごとで、こころまるごとで、声を発することのできる日が来ることをこころから願ひます。
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