
二十年ほど前、四国の徳島に、夏、阿波踊りをしに通つてゐた時があり、夏が近づいて来ると、毎年、想ひ起こすのです。
徳島の中心地は、夜が更けゆくほどに、街のあちらこちらで繰り広げられる阿波踊りによつて、だんだんとカーニバル化し、熱狂的になつて来るのでした。
熱狂的になると言ひましても、毎年繰り返されてゐるその熱狂は、祭りを荷ふ方々の永年の修練によつて、カオスに陥ることなく、健やかに保たれてゐるのでした。
たまたま、踊りが繰り広げられてゐる道の真ん中で、有名連で踊つてゐるひとりの中年の男性に踊りのレッスンをしてもらつたことをよく憶えてゐます。
彼のアドバイスは、短く、的確で、まづ、太鼓と鐘の響き、笛の音に注意深く耳を傾けること、そして肩や腕で調子をとるのではなく、それら一連の音が繰りなすリズム、勢ひと間(ま)を脚で稼ぐこと、つまり、阿波踊りは足から始まる、といふことでした。
そのとき、腰から下はどつしりと力強く安定して下に落ち、大地に沿つてゐますが、両足は一足ごとに新たに新たに活き活きとリズムをとりつつ、膝の力を緩めつつ、ステップを踏んでゐます。
一方、上半身はできうる限り力を抜いて、お腹から胸へかけて広々と、そして両腕はまるで天から降りてくる何かを迎へ入れるかのやうに、晴れ晴れと上へ差し上げます。
コーチをして下さつたその方の両腕はその指先に至るまでどこまでも優美なものでした。
天を迎へ入れるかのやうな柔らかな上半身と、そして大地に力強く沿ひながらも生命のリズムを刻む下半身をつなぐ要(かなめ)の一点が、やはり、腰にありつつも、頭は肩の上に静かに安らいでゐることも、汗だくになつて踊りながら感じ取れたことでした。
「わしも三十年踊つとるけど、まだまだ、うまあ踊れんわ」とその方は仰つてゐました。
みづからの意識しがたいところ、眠りの意識に領されてゐるからだに、みづからの意識をもつてみづから稽古をつけて行く訳ですから、それは、まさしく、わたしにとつては、アントロポゾフィーの実践練習、言語造形の稽古、そのものでした。
芸術実践において、このからだの三分節をリアルに感覚することが、大事な鍵なのです。
祭りにおいて人が舞ひ踊るといふことと、夏の一日、高き神々と繋がることへと人々が古来向かつてゐたといふこととの意味を、ヨハネ祭が近づいてゐる、いまも、想ひます。
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