人は、北へ向かふとき、精神の緊張に向かふ。
南に向かふとき、精神の弛緩、リラクゼーションに戻る。
いや、そんなことはないよ、と思ふ方もゐるだらう。
しかし、日本においては、昔の人は、特に、西南の人は、さう、感じてゐたやうです。
松尾芭蕉も、精神の緊張を追ひ求めるがごとく、江戸を発ち、東北への奥の細道を歩き、また、母なる地、生まれ故郷である西南の地、近畿へと戻る、そんな旅をみづからに課しました。
イギリスなどでも、例へばスコットランドに向かふことは、日本における東北地方にこころを向けることに似てゐるのだらうか。どうだらうか・・・。
現代においては、北へ行つても、南へ行つても、街だとどこも同じ風景、同じ文化に埋め尽くされてゐる感がありますが、やはり、少し街から離れると、そこには、いまだ、その土地ならではの独自の濃厚な色があるやうに思ひました。
そして、このたび、東北へ旅して、静かだけれども深く思つたことは、意識的に、東西南北、ゆく道、帰る道、それぞれの趣きの違ひに目覚めること、それが、現代人のわたしたちにとつて、たいせつなことではないか、といふことでした。
グローバリズムといふ名の画一性、均一性、全体主義が蔓延らうとしてゐる今、独自性に満ちた、彩りの豊かさを、わたしたちひとりひとりが、みづから、意識し、生み出し、創り出して行く。
その土地、その場、そのとき、その人の、独自性を尊ぶことは、わたし自身を尊ぶことへと深いところで繋がつてゐるのですね。
世を知りたければ、あなたみづからをみよ。あなたみづからを知りたければ、世をみよ。
多面的に生きることが、確固たるものを育てる。
ひとりを生きることが、世の彩りの豊かさを味はふことへと繰りなしてゆく。
こころを破壊しようとする悪しき力が働いてゐる、今、わたしたちは、こころを守り、育ててゆかうとする精神の力を、世に贈らうとする者です。