昨日も言語造形のクラスをしてゐまして、芸術実践とは、まあ、なんと、「道」であらうことか、と汗を流しつつ皆でつぶやき合つたのでした。
ひとことで言へば、「楽じゃない」。
でも、なぜか、練習のあと、稽古のあと、すがすがしいこころもちになつてゐるのです。
作品作りをしてゐて、少しづつ、少しづつ、その作品に磨きをかけて行くわけですが、そのプロセスは、自分自身を研ぎ、磨き、練り、研いで行くプロセスでもあるのですね。
個人的な好き嫌ひの情や、恣意や、我が儘といつたエゴが、だんだん、落とされて行くのです。
ゲーテは旨く言つてくれてゐます。
「自然の頂きに置かれることで、人は、みづからの内に、ふたたびひとつの頂きを、きつと、生み出す。みづからとは、そのやうなまるごとの自然なのだ。あらゆる全きもの、徳に浸され、選び、運び、奏で、まことを呼び覚まし、遂に、芸術作品を創りだすまでみづからを高めて行くことによつて、人は、さういふ、まるごとのありやうにいたることができるのだ」(『ヴィンケルマン』より)
芸術実践を通してこそ、人は、まるごとの自然としてみづからを感覚するのです。
ひたすらに、美しいすがた、美しいかたちを求めて、みづからをこそ、磨いて行くのです。
そのとき、人は、求める人として、すでに、美しい。
さう感じます。
芸術実践も、また、ひとつの、高い世を知るにいたる密やかな細道なのです。
【言語造形の最新記事】
- 七年生たちとの狂言の舞台づくり
- こころを謳ひ上げる いのちを解き放つ 言..
- 母なるいのちの源からの力
- 子どもたちと古典との出会ひ 〜国語教育の..
- 20年目の京田辺クラス「森のしづく」
- 幼な子たちとの至福の時間
- 言語造形ワークショップの様子 宮城シュタ..
- 愛知県豊橋市にじの森幼稚園での言語造形 ..
- 自分自身を健やかに忘れる
- 生の語りを通してこそ見えて来るもの
- ことばをたいせつにする幼児教育の場
- 言語造形と演劇芸術のための学校
- 青森でのひととき
- 救ひ
- 国語教育としての言語造形
- マスクを剥がさう 2021😉
- エジプト時代の甦りとしての言語造形
- キリスト生誕劇を語るシュタイナー
- 精神の境へ 〜青森公演『やさしい世界の終..
- 中学生とキリスト生誕劇の稽古