
エッカーマン著『ゲーテとの対話』。
昨日読んだところに、こんなゲーテのことばが。
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わたしも自分で経験したことがある。
腐敗熱(おそらく伝染病の一種)がはやつた時、
どうしても伝染が避けられない状態にあつたが、
わたしはただ断固たる意志だけで、
その病気を追ひ払つてしまつた。
さういふ場合に道徳的な意志は、
信じられないほどの強い力を持つてゐるものだ。
いはばその意志がからだに浸み通つて、
すべて有害な影響を跳ね返すやうな、
積極的な状態にからだをおくものだ。
ところが、恐怖心といふものは、
積極性のない弱い感染しやすい状態で、
どんな敵でも簡単に我々を占領してしまふ。
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ゲーテのことばは、真実を穿つてゐるやうに感じる。
「道徳的な意志は、 信じられないほどの強い力を持つてゐる」
ここで、わたしが問ふてしまふのは、意志の強さのことでは実はなく、次のことなのです。
あれだけ自然科学に通じてゐたゲーテにして、この「信じられないほどの」ものに対する、驚きの念、信頼の念。
この念は、何に根差してゐるのか。
これは200年前のことばだが、いま、わたしたちは、現在の政治家たちのことばを、疫学の「専門家たち」のことばを、どう受け取る?
「専門家」が何を言はうと、どう受け取り、どう行動するかは、ひとりひとり、自由ではないのか?
少なくとも、考へる人にとつては。
好き勝手に行動すればいい、といふことでは全くなく、自分自身の目で見て、自分自身の頭で考へて、納得できるのならば、その上で、ふさはしいと見いだした行動をわたしたちはできる。
さうできることが、自由といふことなのではないのか。
さうできるのが、人ではないのか。
哲学は、机上の学問に過ぎないのか?
机上の学問などでは全くなく、恐怖を越えて、わたしたちの真の人生と文明を支へる、永遠のことばのひとつではないのか?
ゲーテは、少なくとも、自分自身の目で見、自分自身の頭で考へることを、重ねに重ねた上で、自然科学では証明できないことにも、みづからのこころが確信することを、堂々と表明し、堂々と行動に移した人だつた、さう思ふのです。
わたしたちの行動を導くのは、誰なのか。何なのか。
政治家の言ふことでもなく、専門家の言ふことでもなく、つまるところ、わたし自身の見る力と考へる力なのではないでせうか。