
わたしが花をじつと觀てゐるとき、花もじつとわたしを觀てゐます。
花の内に、神さまがをられると仮に想像してみます。
さう、花の神さまは、人にじつと観られるのを待つてゐる。
「待つ」とは、そもそも、神が降りてこられるのを待つことを言つたさうです。
松の木は、だから、神の依り代として、特別なものであつたし、祭りとは、その「待つ」ことでありました。
中世以前、古代においては、人が神を待つてゐました。
しかし、いま、神が人を待つてゐる。
わたしたち人に、こころの眼差しを向けてもらふのを待つてゐる。
植物は、激情から解き放たれて、いのちをしづしづと、淡々と、また悠々と営んでゐる存在です。
しかし、植物は、人から愛をもつて働きかけられるのを待つてゐる。
さらには、人のこころもちや情に、応へようとしてゐる。
人と植物とのそのやうな關係は、古来、洋の東西を問はず営まれてきました。
とりわけ、日本においては、華道、さらには茶道が、そのやうな植物と人との關係をこの上なく深いものにしてゐるのではないでせうか。
それは、表だつて言挙げされはしませんが、植物を通しての瞑想の営みとして深められてきたものです。
落(おち)ざまに 水こぼしけり 花椿
松尾芭蕉