2021年02月07日

比べる、から、敬ふへ



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誰かに憧れたり、何かにときめいたり、こころが突き動かされたりして、その誰かや何かに近づかうと気持ちが盛り上がることが、特に若いときにはよくありますよね。


その憧れの対象は、マスメディアに出てくるタレントさん、スポーツ選手、有名人から、職種といふ職種における有能な人、魅力的な人、魅力的な生活スタイル、考へ方、生き方、そして人を超えた存在、神のやうなあり方、精神界、霊界、天国、神に至るまで、物質的なものから精神的なものまで、人各々、それぞれです。


しかし、その誰かがやつてゐることや、素敵な何かに向かつて、自分自身も努力し始めることができればいいのですが・・・。


その誰かや何かが素晴らしければ素晴らしいほど、いつしか、自分自身とその憧れの対象とを比べ、その間の遠い距離ばかりにこころを向けはじめるきらひがないでせうか。


そして、自分自身とその憧れの対象とを比べて、自分自身を卑下しだす。


「自分には無理だ」と。


わたしがアントロポゾフィーを学んでゐて、最も強く励まされるのが、『いかにして人が高い世を知るにゐたるか』の「条件」の章にある、次のことばです。


 こころのしかるべき基調が、
 きつと、はじまりとなる。
 密(ひめ)やかに究める人は、
 その基調を敬ひの細道と呼ぶ。
 わたしたちはわたしたちよりも
 高いものがあるといふ、
 深みからの情を内に育まないのであれば、
 高いものに向けて
 みづからを育み高める力を
 内に見いだすこともないであらう。



憧れのもの、状態、それは、別な言ひ方をするならば、人にとつての「高いもの」と言つてもいいかもしれません。


「わたしたちよりも高いものがある」。


その「高いもの」と己れを比べるのではなく、「高いもの」を敬ふ。


そのこころの向きは、自然には生まれない。意識的に練習しなければ、「敬ふ」といふこころの力は身につかない。


「高いもの」に対する敬ひから始まり、生きとし生けるものに対する敬ひ、ありとあらゆるすべてに対する敬ひへと、その練習は続けられる。


しかし、人は、放つておいたら、その対象と自分自身との距離をもてあまし、自分自身を卑下しだす。


そして、敬ひとは反対の方向、対象をけなし、裁く方向へおのづと傾いていく。


「高いもの」と己れを比べるといふこと、そしてみづからを卑下するといふこと、それはその相手を「さげすむ」ことと裏表であり、それは実はその人のエゴなのです。


そして、一方、「高いもの」を敬ふといふこと、それはその人のこころの高い力です。


比べる、から、敬ふ、へ意識的に方向を変へる。


敬ふからこそ、その対象と共にゐられるのです。人間関係など、まつたく、そのことが当てはまります。


敬ふことによつて、初めて、その対象から力が自分に流れ込んできます。


そして、敬ふからこそ、その対象に向かつて、いや、もうすでに、その対象と内的にひとつになつて、こつこつと根気をもつてその人その人の憧れの道を歩いていけるのでせう。


誰がなんと言はうと、歩き続けられるのでせう。


シュタイナーが、その本の最初の章に、「条件」としてそのことを述べたのは、それだけ現代人にとつて、比べることから敬ふことへのこころの移行が必要なことだからです。




posted by koji at 08:05 | 大阪 | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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