2021年02月06日

精神の学びの場、精神の運動



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今日も、アントロポゾフィークラス・オンライン「普遍人間学」を行ふことができました。


前半、「学ぶ」といふことの本質的な意味を捉へることから必然的に、「アントロポゾフィーにおける基」、さらには、「アントロポゾフィー運動」「アントロポゾフィー協会」について、お話しをすることになりました。


「運動」といふと、そこに加はることは、なんらかの手先になるやうなイメージがありはしないでせうか。


「協会」といふと、そこに加はることは、なんらかの足枷を課せられるやうなイメージがありはしないでせうか。


しかし、アントロポゾフィーといふ「精神の学び Geisteswissenshaft」を地上的に進めていく、深めて行く、また運営していくことにおいては、決して、何かの手先になつたり、足枷を課せられるやうなことはありません。


なぜならば、この学びは、どこまでも現代といふ時代に根差したものであつて、それは、どこまでも、ひとりひとりの〈わたし〉を育てゆくもの、立てゆくものだからです。人が自由になりゆくための学びだからです。その人が、ますます、その人になつてゆく道だからです。


〈わたし〉が、何を、どう、考へ、感じ、欲してゐるのか。そして、〈わたし〉は、何を、どう、行為するのか。


あるものごとを、あるあり方で考へるのは、他の誰でもなく、この〈わたし〉がさう考へるからであります。


あることばを、ある言ひ方で話し、語るのは、他の誰が言つたからでもなく、この〈わたし〉がさう語りたいからさう語るのです。


あることをするのに、さうこころを決めるのは、他の誰が決めたからでなく、この〈わたし〉が、さうするとこころを決めたから、さうするのです。


シュタイナーが、ああ言つたから、かう言つたから、ではなく、神がかう仰つてゐるから、ああ仰つてゐるから、ではなく、〈わたし〉といふこの精神が語ることにわたし自身が耳を澄ますことから、こころを決めていくことの練習をすることこそが、このアントロポゾフィーの基であります。


ルードルフ・シュタイナーが、この世で仕事をしてゐた時から、おほよそ百年が過ぎました。


わたしは、以前にも「ゲリラ的アントロポゾフィー活動」といふやうな書き方で書かせてもらつたのですが、これからは、だんだんと、「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」といふ固有名詞が消えてゆくだらうと考へてゐます。「協会」といふものも、物質的なものから、だんだんとより精神的なものへとなりかはりゆくでせう。


しかし、シュタイナーといふ人に学べば学ぶほど、アントロポゾフィーを深めれば深めるほど、学ぶその人その人の内から発せられる精神(靈・ひ)の働きが、各々の仕事場、家庭、現場で、密(ひめ)やかに発揮されて行く、ひとりひとりの「仕事」に流れ込んでゆく、さう感じざるを得ません。


だからこそ、看板や表式や資格などが要(かなめ)などではなく(これまでもそのやうなものは決して要ではありませんでした!)、その人の学びの深さがこれからはますます問はれて行くのでせう。その人のこころの深さと豊かさと広さがますます、ものを言ふやうになつて行くのでせう。


だからこそ、逆説的ですが、ますます、その人がその人になりゆくための本当の学びの場(精神の協会)、精神の運動が心底求められるでせう。


わたしたちの社会は、切に、さういふものを求めてゐます。




posted by koji at 18:23 | 大阪 ☀ | Comment(0) | アントロポゾフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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