青森での十七日間、毎日、オイリュトミーをする人、越中奉さんと朝から晩まで、ずつと話をし、飯を食ひ、練習をし、酒を飲んでゐましたが、こんなに話を聴いてもらへたことは、わたしのこれまでの人生でなかつたやうに思ひます。
わたしたちの間では、思ひやりの深さと遠慮のなさと尊敬と悪口と信仰とが混然一体となつてをりました。学生時代に帰つたやうでした。
そして、彼のオイリュトミーにおいて何が素晴らしいかと言ふと、それは、肉の耳に聴こえない、人のこころの動き、息遣ひを確かに聴くことのできるオイリュトミーであることでした。
その目には見えないかたち、耳には聴こえない余韻が描くフォルムを多くも多くの人が見えない、聴こえない、といふことに、わたしは仕事をしながら、気が狂いさうにもなつてをりました。
しかし、その不可視のもの、不可聴のものに対する感覚を分かち合へたことは、何か神からの恩寵のやうに感じ、特別の喜びでした。
さういふ感覚は、「ことばの感官」によつて感覚されます。
それは特別な人だけが持つ感官では、決してなく、すべての人が持つてゐるものなのですが、ことばを意味でしか捉えない、物理的な響きでしか聴くことのできない、知性に偏り過ぎた現代人の多くは、その感官をみづから閉ざしてしまつてゐます。
幼な子たちは、新鮮な生まれたての「ことばの感官」をもつて全身全霊で人のことばを聴いてゐますが、小学校に入り、知的な教育ばかり受けてゐるうちに、いつしか子どもたちはみづからの「ことばの感官」を閉ざして行きます。
そして、ことばの響きから生まれる色彩や運動、かたちや音楽などを感覚することができなくなつて行き、ことばを単なる情報を伝達するための符牒に貶めて行くのです。
では、その閉じられてしまつた感官をどうやつて再び開き、豊かに育んで行くことができるのか。
それは、一生懸命、ことばを「聴かうとする」ことです。アクティブな意欲を持つて、一つの音韻から一つの音韻を聴かうとすることです。注意深く静けさを聴かうとすることです。
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