2020年11月11日

命ある芸術 〜フルトヴェングラー『音と言葉』〜



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「まさに、我が意を得たり・・・!」
フルトヴェングラーの著書『音と言葉』の中の「作品解釈の問題」を読んでゐて、こころを揺さぶられました。


それは、作曲する者の営みと、その曲を再現・演奏する者の営みとを、対照的に描きつつ、つひには、ひとつのところへと収斂していきながらも、作曲した者も演奏する者も思つてもみなかつた、より広やかでより奥深い境へと解き放たれていく、そんな芸術的な秘儀の道筋を描いてくれてゐる。


かういふことばで言ひ表しにくいことを的確に言ひ表してくれる先人があることは、本当にありがたいことです。


これは、文学作品を音声として芸術化する時にもそのまま当て嵌まるのです。


なかなか、このことは上手く言へないのですが、今日の言語造形のクラスでも実感したこととして、鍵は、足の運び、腕の動きにあります。


つまり、意欲をいかにして芸術的に洗練させるか。眠れる意欲こそが、新しい生き物を産み出す秘訣。特に足の運びは、普段無意識でなされてゐるけれども、その無意識の領域、眠りの領域にまで、ことばを降ろすことができたとき、ことばが命を持ち、また、新しいことばが生まれてくる。


この、眠りの意識にこそ働きかけるありやうは、書く人にも、それを再現する人にも、ことばの生命に預からせます。


ゲーテは、狭い書斎の中を歩き回りながら、『ファウスト 第二部』の彫りの深いことばを次々と秘書に書き取らせていつたさうです。


きつと、『ファウスト』を演じる俳優も、その足の運びが、ものを言ふはずです。


要(かなめ)は、ものに命を吹き込むこと、ものの命を汲み取ること、ものから命を甦らせること、そのためには、人はみづからの意欲をもつて芸術的にものに働きかけていくことだと思ふのです。




posted by koji at 20:25 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 読書ノート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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