2020年11月08日

旋律造形と言語造形



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ここに書かれてゐる「指揮するといふこと」についての小西収さんの文章は、何十年来持ち続けてゐるわたしの自問自答の道に一筋の光をもたらすものです。


時間といふ動きの世界の中で、何をよりどころにして、そして、いかにして、人は新しい世界を創造していくことができるのか。


一瞬一瞬の精神の身振りによつて、おのづから鳴らされる一音一音の音、音韻にわたしたち演者は導かれてこそ、恣意から大きく飛翔できる何かにまみえることができる。


その身振りの創造。その持続。


「冷静に言えば、できるはずのないこと」に「賭けている」。


その行為そのもの、その行為の持続そのことに、かけがへのない「意味」がある。


わたしには、さう思へて仕方がありません。


なぜならば、大仰な言ひ方になつてしまひますが、それこそが「音楽の神」「ことばの神」に導かれつつ、歩いてゆく道だと思ふからです。


出逢ひの僥倖をひたすらに思ひます。


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言語造形家・ 諏訪 耕志さんの公演『やさしい世界の終はり方』、大阪、京都の2公演が終わりました。クラリネット演奏で共演させて頂きました。写真は今回のために編んだ楽譜の一部です。こんなことを考えこんなものを作るのもなかなか珍しい、と我ながら思っています(笑)。
 
今回はトークのコーナーもありました。が、当意即妙というのは苦手で…特に京都では、せっかく諏訪さんに振ってもらったお話に十分には応じることができなかったなあ、と省みておるところです。そこで、今ここで答えてみようかと思い立ちました。本来会場でこそ聞けるトークでしたので、ご来場頂いた方々にはご寛容のほどお願いしたく…、野暮を承知で書こうと思います。
 
指揮者とは何をしているのか。
 
「奏者が気持ちよく音を出せるように」とか「合わせやすいように示す」といったところに焦点を持つ指揮法・指揮者論が主たる潮流の一つとしてあることをもちろん知っていますが、私の指揮はそれとは異なる方の流儀といえます。もちろん、私の全身を奏者が読み取ってくれたおかげで、その奏者が弾きやすくも合わせやすくもなる…というふうに進めばたいへん幸いなことで、ぜひそうありたいものですが、それでもそれは結果に過ぎず、私にとっては、それが指揮をする目的ではありません。
 
「身振りそのものが、何らか、演奏する音符自体音楽自体をそのまま体現するものである」ように注力すること。私は、普段からほぼそれだけを考えています。極言すれば、その動きさえ追えば音を聴かなくとも曲がわかりどんな演奏かもわかる!のが理想です(笑)。実際の音楽は無くてもよいというのは、何とも荒唐無稽で反転した言い方ではありますが…。しかし、自らは音を出さずに、ひたすら空を切っては消えていく指揮者の動き、それは、1曲のスコアの中身を表すのにはあまりにも持ち合わせが少な過ぎるように思えます。しかも、上記で「全身」と書きはしましたが、主として用いるのはせいぜい両腕と両五指のみ。そのような指揮者の身振りに、1曲の音楽世界のすべてを体現する…なんて、冷静に言えば、できるはずはないのでしょう。が、そこに賭けている、というのもほんとうなんです。
 
初めて諏訪耕志さんの言語造形の舞台に接したとき、ああ、この人は私と同様の格闘をされている!と強く感じたのでした。一文・一語・一音を生成させることに賭けるという、無二の芸術。京都公演に来場した親友のKがいみじくも「神は細部に宿る」と。そう!この言葉こそふさわしい。その一瞬一瞬を聴き追うことが、言語造形鑑賞の醍醐味です。私は私の表現追求のことを「旋律造型」という造語で言うことがあるのですが、言語造形という語句との共通性も偶然ではないと思いました。そのようなわけで、諏訪さんとの共演(諏訪さんへの助演)は、指揮ではなくクラリネット演奏によってではありますが、他ではけっして得られない体験を与えられ、私の芸術活動の中でも小さくない意味を持ち続けます。

文 小西収氏


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posted by koji at 12:15 | 大阪 ☀ | Comment(0) | 言語造形 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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