先月四日間連続で行ひました、
「秋の言語造形連続講座」。
その参加者の方が嬉しいことに、
ぎつしりと熱い文章を書いて送つてくれました。
朝から夕方まで四日間、
顔を突き合はせてゐますと、
息も合つてきますし、
ひとりひとりの人の力が、
なぜか深いところで作用し合ひ、
学びがつねづねより深いところまで降りてゆきます。
言語造形とは、ことばの芸術であり、
息遣ひの芸術です。
ことばと呼吸の関はりを、
実践的に学ぶことによつて、
「人といふものについての学び」
「人間学」の学びが俄然深まるのです。
それは、芸術を通して、
ご自身の内なるものに直面するといふことでもあります。
しかし、一番大切なのは、
学び手の、
信頼に満ちた敬虔なこころのありやうであり、
そのこころのありやうが、
ものごとのものごとたるところ、
ものごとの本質を、
深いところで掴ませるのだといふことが、
文章を寄せて下さつた松岡さんのお人柄をもつて、
感じさせられます。
このことが本当に奇跡のようなことだと思ふのです。
また、動画といふ加工されたものではありますが、
言語造形の実際の片鱗を観て聴いていただきたく、
その時に学んだ、
グリム・メルヘン「星の銀貨」の動画を合はせて、
松岡さんの文章をご紹介いたします。
https://www.youtube.com/watch?v=yysoXz4_CR0
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☆秋の言語造形連続講座の学び☆ 松岡知栄子
この4日間の学びを通して大きな驚きと共に強く感じられたのは、「頭だけで学ぶこと」と、「息遣いを通して全身そして心も頭も使って自分のまるごと全部で学ぶこと」がいかに違うかということ、そして息づかいを通して自分のまるごと全部を使って学ぶことで、自分の内側に大きな変化がもたらされていったということです。
これまでの自分の学び(勉強)は、講座など話を聞いてわかったつもり、本を読んでわかったつもりになっていました。もちろんそのことを通して日常で経験したことが深まったり、心が動かされたり、視界が広がって問題が解決されたような気持ちになりましたが、しばらくするとまた何かが違っているような気がして、新たなものを求めて、あてもなくさまようことになっていました。
.
また日常生活の中でも頭に偏りがちで、まずどうするか考えて決めてからでないと動けなかったり、動きながらも「これでいいのかどうか」気になってしまったり、ひどい時は考えるばかりで動けなかったりすることもよくありました。
そのため自分の深いところでは空虚さがあり、不安があり、どこか疲れていて、何かしなくては、もっと何かを身につけなければ、このままでは・・・という思いがありました。
そんな中この4日間の講座の学びでは、驚くほど自分自身をまるごとを使うことへと導かれていきました。
そしてその学びがどれほど生きていくこととつながり、息づかいを丁寧に練習していくことが大きな力になっていくことか、講座を終えてから気づかされることがたくさんありました。
立つところから足をあげて運んでおろすの練習をした時、いつも考えずにしている歩くという動作を、呼吸と共に丁寧に行う。シンプルな動作でありながら、自分の全部を集中しようとしないと難しく、その1連の流れの中に自分の全部で入っていくことを自然と促されたように感じました。いつもは意識せずに行っている呼吸と歩くこと、それを意識的に丁寧に行うと全く違うものになって、今まで知らなかった世界がひらけるような、様々なところが使われ、自分の内にいきいきとしたものが出てきました。
私たちは丁寧に呼吸をすることを通して、いつも高天原にのぼって行け、地に降りてきて空間を満たしていけるということがとても心に響きました。生きてる間休みなく行っている呼吸を通して、とても身近な呼吸を通して、そしていつでもそのようなところで生きている(生かされている)ということが・・・。
お手玉を使った練習で、からだを使ってアンチパシーからシンパシーへと移っていく中で、日常ではとても難しいレベルで解き放つこと、相手へと共感をもって開いていくことへ促されていったと思います。
日常では、相手へと、外の世界へとひらくことが大切さだと思っていても、いざそのような場面なると緊張したり、不信感がでてきたり難しく感じることがよくありました。
でも一度そのような日常から離れて安心できる空間の中で、導いていただきながら、頭で考えるより腕を解き放って息づかいを通して相手に開いていく練習をしてみると、様々なことが感じられました。相手へひらいてゆく時の緊張と喜び、少し勇気を出して前へ進んでいく感覚、自分に閉じこもっているところから相手に気づいた時に生まれてくるもの、晴れやかな感じ、様々な感覚を安心してそのまま感じることができ、自分なりにですが、確かな解き放つ感覚がひとつ自分の内側に生れていったと思います。
そして様々な感覚があったあと、最後は相手へと共感をもってひらいていった時の大きな喜び!それが確かな体験として刻まれたと思います。
「星の銀貨」のお話に出会い、先生に導いていただきながらお稽古し、4日間でしたが、声に出すことを積み重ねる中で、お話の中に入っていくようなお話と自分がだんだん親しくなるような何とも言えない喜びがありました。これまでお話や詩を声に出すにあたって、まずその感情になるようにそのように表現できるようにと、頭で考えていたのだと思います。何度も声に出す中で、発見があったり少し理解が深まったように感じることはあっても、それまではいつもお話と自分との間に一定の距離があったと、初めて気がつきました。
4日間で体験したことは全く違っていて、まずお話へと扉をあけて入っていこうとして、そこでだんだんお話と自分がひとつになっていく感覚でした。(それはほんの入口のことだったと思いますが)
和歌をみんなでよんだ時、先生が昔の人がよんでほしいようによもうと話されたこと、そしてそのようによむと、昔の人が喜んでいるとおっしゃった時、ほんの短い時間でしたが、目には見えなくても美しさと何とも言えないようなありがたい感情が感じられました。
自分は拙い読み方であっても、和歌を声にだすことで、昔の人々と今がしっかりとつながっているのを感じられ、先生がおっしゃられ、その空間を同じくさせて頂いたことで、想像上のことではなく、本当にそのように体験として自分の内に刻まれたことに驚きを感じました。
昔の人がことばを通して磨いてこられた日本人ならではの豊かな感覚を体験すること、神様を感じること、その詩やお話とひとつになるように親しくなっていくこと、それらのことへみんな、とても具体的な練習を行うことを通していつでも開かれているのだと、そのことがとても心に響いています。
言葉に対して日頃の自分は、知らず知らずの内に、言葉で(情報として)言えば分かってくれると思ってしまっていて、「言ってみる、言葉にしてみることで、自分の中に、そして相手との間に生じてくるもの」を見ることなく、または自分の見えてることしか見ず、そして相手の言葉もそのように受け取っていたことがよくあったと思います。さらに言えば生じてくるものを見ることに恐れがあったと思います。
エーテルのからだアストラルのからだを感じて、同じ場に身を置かせていただき、空間に響く声、聞こえるものも聞こえないものも、見えるものも見えないものも感じようとすることに導いていただき、「きく」「みる」ことへのあり方、そこへ自分が扉を開いていくことの大切さを感じました。
ことばに対する感覚を磨いていくこと、息づかいを大切にしていくこと、生きたことばにしていくことが、自分の命もいきいきとしていくことにつながるのだとのだということ、人というものはそのようになっているということに、新鮮なハッとするような驚きを感じます。
諏訪先生の言葉で直接教えていただいた、「人というもの」のお話は、「人というもの」に対してより細やかに丁寧に見ていく道しるべだと感じました。
人間は9層の存在でそれぞれの層に働きや大きな力が込められていること、7年ごとにからだ、こころ、精神が目覚めていく道すじなど、それまでは浅はかにもそのようなことを知ることで、その見方にしばられるのでは、窮屈になるのではと思っていたのですが、全くそうではなく、そのことでより自分を理解し、人というものを細やかに丁寧に見ていける、また子どもたちにとって何が大切なのか、様々な方法に振り回されない、大きな助けになるのだと気づきました。
人間の存在の神秘を感じると同時に、何をめざしていけばいいのか?それは何かに操られたり縛られたり息苦しくなってしまうことではなく、自分自身を育み自由になっていく、ひとりひとりにまかされた「わたし」を育むことなのですね。外から何かを持って来なくてもいい、探しにいかなくてもいい、これでいいのかと常に思い悩まなくていい、自分でないものになろうとしなくていいのは、なんて安らかなことだろう・・・と感じました。
でもそのように感じられましたのは、諏訪先生が深められ諏訪先生の生きた言葉で直接教えてくださったからこそ、諏訪先生のことばが全身に染み渡るようで、心が動かされ直接自分に響いたからこそだったと思います。
そして一つの学びを終えると必ず先生が「どうでしたか?」と問いかけてくださり、からだとこころ、自分のまるごとを使った体験を、頭でとらえ直して自分とのむすびつきを感じさせてくださったからだと思います。
4日間を終えた時、今までの自分に思いが至りました。お話の練習の時、先生から同じ方向で前へ前へというアドバイスをいただきましたが、実際に自分自身様々な場面で(仕事の場や人との関係などで)ふっと引いてしまうことが癖になっていて、自分でも自覚がありました。
そのことで大きく困っていたわけではなかったので、問題としてしっかり捉えず、そのままにしていたのですが、小さな違和感は積もっていました。今振り返ってみると、ふっとひいてしまったことで何かを生かさず溜めてしまったもの、飲み込んでしまったもの、それはほんの小さなことであっても、そのことで生きていることが薄まっているような、結果として自分自身をじわりじわりと苦しめ、疲れている状態に持って行っていたかと思います。そしてこれでいいのかと気になってしまうのも、1つの方向に定まっていない表れだったと思います。腰を前に前に同じ方向で語っていく、その時はそのことに取り組むので精一杯でしたが、終わった後に何とも言えない晴れやかさとからだの中心が感じられるような安定感があり、それと同時に心の中にも安定感が広がっていきました。これこそ自分の望んでいたことだと感じました。
また外の世界に対して、自分の捉え方が原因だと分かっていながら、外や環境(人との関係が、職場が、社会が・・・)に原因を見出し、そこから距離をとろう、それを取り除こうとそちらに意識がいくことがよくありました。
でもそれを超えるカギは自分の中にあったと、自分の丸ごとを使っていくこと、自分から扉をひらいていくこと、腰を運んでいくこと・・・そのことを通して自分を育んでいくこと、すべて自分の中にあったのだと気づきました。
4日間の言語造形の練習をし、人というものを学ぶ中で、1番大きな変化は、「生きていこう!今いるこの場所で生きていこう。」というしっかりとした気持ち、意志のようなものが自然と芽生えたことです。そのことはとてもありがたく私にとって喜びです。そして空虚な感じが消えたことです。フィジカルなからだだけでなく、エーテルのからだ、アストラスのからだを使って声を出そうとすることで、練習することで、自分の内側が満たされ、空虚さを埋めるためにもう何かを探す必要はないのだと、自分の奥も安心したのだと思います。4日間、時間を超えたような美しさの中に身を置かせていただき、自分の内側にも新しい風が吹きこまれたような、そこから新たな力をいただいたのだと思います。
4日間の講座を終えてその後2,3日は諏訪先生、生徒の皆さんと共に共有した場の空気にすっぽり包まれていました。
私にとって喜びとあたたかさに包まれた4日間だったように思います。日にちが経つにつれ、包まれていた空気感は少しずつ静まっていきましたが、元の日常に戻ったのではなく4日間での体験、学んだことはしっかりと自分の土台に落ち着きと共に確かに内側に入ったのを感じます。内側に芽生えたこの種を、いただいた宝物を今いる場所で大切に育んでいきたいと思います。
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