2020年10月09日

いろいろあつていい、けれど・・・



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東山魁夷「道」



「これもあり、あれもあり」
「ここから、あそこから、
 いいとこだけ取つて自分の役にたてよう」


それが、わたしたち現代人に、
多く見られる相対的で、
スマートなものの見方、生き方。


あまりにも当たり前の考へ方なので、
その考へ方を疑ふことなど、
現代ではほとんどないと思ひます。
また、さういふ相対的な考へ方は、
大いにあつていいことだと思ふのです。
何事も比較して、検討して、
そこから良きもの、役立つもの、得するものを取り入れる。


しかし、それは、どこか、
自分自身のこころに対する
信頼のなさに裏打ちされてゐるありやうに感じられる。


さういふ生き方とは、また違ふ、
もう一つの生き方もあつていい。
「これだ」といふものを深めていく。
「ここだ」といふ場所にとどまりつづける。


そんな生き方は、
現代人にとつてはあまりにも奇異に感じられることでせう。
そのやうなあり方は、ときに、なだらかでない、
不器用さが表立つやうなことにもなるでせう。
お洒落でもなく、
垢抜けないたくさんの時期もくぐらなければならないでせう。


しかし、どんな世界にも、
「これだ」といふ次元があり、
その「これだ」の奥へ、奥へと入つていくことによつて、
そこには思つてもみなかつた豊穣な沃野が
広々と拡がつてゐることに、
人は驚異と畏敬と尊崇の念ひにうたれるし、
うたれてきたのです。


「これだ」といふものを深めていく、
絶対の力をもつこと。


そしてこれは逆説的なのですが、
そのためには、
自分なりの意見だとか、
自分なりのやり方をいつたん捨て去り、
自己を空つぽにして学ばうとする
謙虚で素直なこころの力が必要です。
我流ではなく、世の法則に沿ふことです。


亜流とは、全くの素人から生まれるのではありません。


道に好意を寄せてゐる人々。
しかし、そのやうな人々のうちに潜む軽薄から、
もしくは己れを見つめ切らうとしないごまかしから、
必然的に生まれます。
それはまさに必然的に、です。
軽薄と偽善は、すべての人の内に潜むものです。


だから、亜流はいくらあつてもいい。
しかし、しかし、本流を細らせてはならない。
枯らせてはならない。
世界を亜流ばかりの世界にしてはいけない。
本流を生きるのは、「これだ」を生きる者です。
自分なりのやり方をおいておき、世の法則に沿ふ道、
さういふ科学的・芸術的・宗教的な道を
歩くことの健やかさを、
後の世代に伝へていくことが、
現代人であるわたしたちの仕事でもあると思ふのです。


亜流と本流を分かつのは、能力の違ひではなく、
意識の違ひです。
亜流は、自分自身のことに意識が尽きてゐます。
孔子のことば、「三十にして立つ」に向かふのみです。


本流は、自分自身を越えて世代を越えて、
世に文化の礎をこつこつと築いていくこと、
過去から未来へと引き続く意識を
自分自身のなかに燃やし、育み、
他者へ、後の世代へと伝へようとしてゐます。
時間の連綿としたつながりをたいせつにする、
意識のありやうです。




posted by koji at 23:46 | 大阪 ☔ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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