2020年10月07日

神話を見いだす



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若き日のミヒャエル・エンデ


暮らしと芸術が、
深いところで通ひ合つてゐた時代があつた。


その通ひ合ひが、
暮らしと芸術の互ひを
生命力で満たしてゐた時代があつた。


連綿と続く、さういふ営み、
育みがあるといふことが、
文化に型があるといふことなのではないか。


文化の型が失はれ、
いや、文化そのものが失はれ始めて、
どれほどの年月が経つたのか。


わたしは、文化といふことばを、
物語と言ひ替へてもいいかもしれないと思つてゐる。


物語が、わたしたちから失はれてしまつた。
物語るとは、ものを語ること。


ものとは、そもそも、
見えないもの、
聴こえないもの、
さはれないもののことを指す。


物語りとは、
人のこころ、夢、内なる秘め事、
表沙汰にはならない隠されていたこと、
そして通常の感覚を超えた叡智を語ることであり、
果ては、神のことを語ることを指す。


だから、物語は、そもそも神話だ。
神話とは、
神自身が語られたことばを
そのまま人が語り継ぐことから始まり(古事記)、
神に触れ、神に通はれるやうな、
驚くべき、畏るべき経験を語ることであつた。


文化に型があつた時には、
物語の共有、
神話の共有がなされてゐた。


わたしたちは、
共有する物語を失ひ、
神話を失ひ、
文化の型を失ひ、
文化そのものさへも失つてしまつてゐる。
人と人とをむすぶエレメントを失つてしまつてゐる。


だから、いま、人は、
自分自身の神話を見出すしかない。
芸術を真摯に生きようとする人は、
とりわけさうだ。


ひとりひとりが孤独に夢を織り続け、
その孤独の中に、
自分ひとりだけの神話を見いだし、聴きとること。
そして見いだしたもの、聴きとつたものを、
下手でもなんでもいいので、
外に表し続ける。


そのやうな神話の個人的な表出の仕方が、
いつたい何にむすびつくのだらう。
わからない。


しかし、自分自身の足元を
掘つて掘つて掘り進むことによつて、
見たこともない岩盤にたどり着くかもしれない。
その岩盤はとても古く、とても新しい。
その岩盤が語りだす物語は、
新しい共有性を持つ可能性はないだらうか。


芸術を通して、
人と語り合ひたいと思ふ今日この頃。




posted by koji at 08:17 | 大阪 ☁ | Comment(0) | 断想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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